聖書とイスラエル

神の国,神の地

Israel: God's People, God's Land
David M. Pearce


 

一人の老人が丘の上に立っており、イスラエルはみなその下に集まってその老人の話しを聞いています。この人たちは神の民であって、彼ははもう40年間もこの群れを神の言葉で養って来ました。モーセの声は荒野の空を響き渡って聞こえて来ました:あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた(申命記7:6)

主があなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国よりも数が多かったからではない。彼はこれを彼らに思い起こさせました。神には数の多少が問題でなく、量より質が重要であります。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出した(申命記7:7-8)と言いました。神は彼らを呼び出したエジプトを熱望している彼らの反逆にもかかわらず、彼らを愛していました。数十年間マナを与えて養いながら訓練を受け、荒野をさまよっていたイスラエルの子孫は結局一つの独特な国家に鍛え上げられ、歴史と運命を持つ特有な民になりました。

 

選ばれた民

モーセが彼らにあなたがたは神に選ばれた民であると話す時、彼のイスラエルの将来を見通す視線は期待的だったでしょうか?その答えは完全に否定的でした。その1000年の後、その神に背く反逆心は遂に彼らをバビロニヤの虜に捕らわれて行くようにしました。しかし予言者ゼカリヤはユダヤ人たちに対してこのように書いています。あなたがたにさわる者は、彼の目の玉にさわるのであると万軍の主は仰せられた(ゼカリヤ書2:8)と書いています。

人間において目の玉より宝である物はなにもありません。目の玉にさわればすぐ痛みを感じ、暴行に対する反応が起るのです。異邦の国々が神の愛する民を迫害する時このように彼が感ずるのです。またその500年の後、ユダヤ人たちは神の御子を殺し彼の福音を拒絶しました。それで使徒パウロは神はその民を捨てたのであろうか?と自問し、断じてそうではないと力を入れて答えています。彼らは父祖たちのゆえに、神に愛せられいる者である。神の賜物と召しとは、変えることがない(ローマ書11:29)と宣言しました。イエスが話した比喩のその放蕩息子の父のように彼らはたびたび神を悲しくさせますが、その民に対する神の愛は決して変わりません。

神がイスラエルの国と特別な関係をもっているという見解は今日も続いています。今日わたしたちの社会は平等と一様の機会でで満ちています。なぜ神は多くの世界の民からその一つの民を選んだのでしょうか? なにが神に大陸間にあるイスラエルと言うちっぽけな一すじの地に関心を持たせているでしょうか?

この質問に対する簡単な答えは宇宙の創造者である神が彼のすることに対して私たちに答える必要はないというでしょう。私たちは彼のことが永遠なのに比べて、わずかな間だけ彼の作業を見ているのです。私たちはなぜ彼がこのようにしているかを知るには永らく待たねばなりません。

 

神の計画

それは新しい市役所やオフィス街が建築されている時、ビルデング現場を過ぎるようなものです。その囲んでいるフンスを通して中を見ると、泥土の積み重ね、掘っておいた穴、クレンや足場らがあり、騒々しい音を鳴らしながら作業している現場は見ますが、その完成される建物はどんなものであるかはっきりわかりません。勿論、その働きは目的がないのではない事を知っています。その建築事務室の掲示板には計画の青写真が掛けられて、その基礎工程、壁の工事、完工年月を示しています。もし私たちが建築に関する眼識が高ければ、それらを通して完成される建物の様子やデザインを見ながら感嘆するかも知らないでしょう。しかし、ただそこを過ぎながら一見したところでは、市会議が予算を浪費しているとぶつぶつ言うでしょう。

神の仕事を考察することも殆どそれと同じです。私たちはその事務室に入ってその計画を考察しないかぎり、展開される神の計画を絶対に見ることが出来ません。このパンプレットによって読者が聖書に啓示している神の計画を開いて見ることを期待します。神は一つの計画を立て、そして一つの作業スケジールの順序を制定しています。彼が建てているその建築物は神の国と称し、いつかその準備しているすべての段階が完成する時、彼はこの世を恵みと美しさで満たし、過去の数世紀の間彼を愛し待っていたすべての人が住むようになると啓示しているでしょう。神の計画が遂に完成し来るべき世ではイエスが王になり、彼らはイエスと共にこの世の民を治めるでしょう。その時、イスラエルの国と言う建物の構造物、はり(梁)、けた(桁)、それらの上に造られた部屋、回廊らを見ることが出来ます。

では聖書を通して、過去の4000年間その計画がどのように展開するか神の観点から調べて見ましょう。

すでに私たちが引用しているするローマ書11章の句節で、使徒パウロはユダヤ人たちは彼らの父祖のゆえに、神に愛されていると言いました。ユダヤ人たちの歴史を調べて見ると、彼らの部族の始祖はテラの子アブラハムです。アブラハムはカルデアのウルと言う都城、現在イラクのユーフラテス川の近くにある所で育ちました。その時代はすべての人が神ヤウエを見捨て、道徳的に完全に腐敗していました。その時神はアブラハムを尋ねて彼にカルデアのウルを立ち去れと告げました:あなたは国をでて、親族に別れ、父の家をはなれ、わたしが示す地に行きなさい(創世記12:1)。

 

アブラハムー多くの国民の父

これは世のすべての人が受けている神の招待です。しかしどんな態度でそれを受けるかのかと神を信ずる特性があるのです。アブラハムはすべの家財を売り払って立ち退きましたが、どこに行くべきか行く先も知らず出てゆきました。ユーフラテス川に沿て西北へ長く苦しい旅を続けて、遂に彼は地中海と死海の間にある200マイルの長さの細長い地に至りました。そこは海岸線にそて東と西に広がっている山地の中心であってその南にはシナイ砂漠が横たわっていました。その段階では,誰もこの三つの大陸の接合点に位置しているイスラエルの地が戦略の要衝地帯であることを感知しませんでした。まだ誰もいつかその砂漠に薔薇の花が咲くようになる時、それが持たれる栄光を見越すことが出来ませんでした。それはただテーブルの引出を引いて神の計画を開いて見なければ知らないのでありました。神はアブラハムに約束しました:わたしはあなたの子孫にこの地を与えます(創世記12:7)。

この声明とは反対に、アブラハムと彼の妻サラは長い間幸福に結婚しながら、不幸にも彼らには一人の子もありませんでした。しかも神はその地を彼の子孫に与えると約束したのです。その約束は時が経るに従って反復され拡張されましたが、アブラハムと彼の妻は一人の子もなく、また一坪の土地も持たず、幕屋に住みながら、その地を転々とまわりました。

ある夜アブラハムは主の使者に質問する機会を得ました。主のメッセンジャーは彼にわたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデアのウルから導き出した主ですと話すやすぐ、アブラハムは、主なる神よ、わたしがこれを継ぐのをどうして知ることが出来ますか?(創世記15:7,8)と彼に問いました。この約束を確認し、保証するために、主はアブラハムとその時代の習慣に従って、犠牲の血で調印する一つの厳粛な契約を結びました。それと同時に、彼は計画の要約をアブラハムにはなしました:あなたはよく心にとめて置きなさい。あなたの子孫は他の国に旅となって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。しかし、私は彼らが仕えるその国民を裁きます。それ後彼らは多くの財産を携えて出て来るでしょう。四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう(創世記15:13,16)。

 

イサク、ヤコブそしてその十二部族

これは注目に値する予言は神の計画をとても詳細に、また彼の予知とても正確に説明しています。さあそれが正確に成就しているのを調べてみましょう。アブラハムは一人の息子イサクの父親になり、彼の孫ヤコブは十二の子を得るになり、またその十二の子からはイスラエルの十二部族が始まりました。その予言の通り、イスラエル部族は飢饉の時が来て異国である南のエジプトに移りました。そこでイスラエルの部族は人口が増加し、彼らはパロの奴隷になりました。すでにこのパンフレットの始めに話しているモーセに彼らをエジプトから導き出す仕事が課せられていました。十種の劇的な災害を受けてエジプトは屈服し、イスラエルはそこから出て行く夜を迎えました。エジプトの人たちは彼らの宝物をイスラエル人たちにしいて渡すほどにイスラエルの神に怯えていました。銀の飾り、金の飾り、また衣服を請い求めた。彼らの請い求めたものを与えさせられた。こうして彼らはエジプト人のものを奪い取った(出エジプト記12:35,36)。

この記録はとても注目すべきことです;イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は、四百三十年であった(出エジプト記12:40)。ちょうどその記録の通り年月が過ぎたのです。またその予言のすべてが正確であることが事実であります:異国で旅として住むこと;そこで奴隷になること;財物を奪い取ること;四百年の後出ること:予言の通り、皆詳しく成就しました。

しかしその予言にはまた道徳的暗示が含まれています。神はエジプト人たちがアブラハムの人たちを虐待したのに対して、色々な大災害で彼らを裁きました。そして今イスラエルの人たちは彼らの先祖アブラハムが幕屋を立てて住んでいたその地に向かって進んでいました。四代が過ぎ去り、その地の住民には暴力と不道徳が満ちていました。神の観点から見れば、カナアンに住んでいるそのアモリ族の悪が満ちていました。モーセはイスラエルにこのように説明しました:あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからではない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである(申命記9:5)。

アブラハム

 

イサク

 

ヤコブ

 

ルベン シメオン レビ ユダ イッサカル ゼブルン ダン ナフタリ ガド アセル ヨセフ ベノニ

 

この簡単な紹介は人間のことに関する神の支配がとても複雑であることを示しています。この地の創造者とその維持者である神は国々の興亡を道徳的基準によって管理しています。イスラエルをエジプトに長らく抑留していたのは、奴隷の経験を通して自由の価値の重大さを認識するようにしたのです。それと同時に、その四代の間アモリ族には彼らの父祖の悪の道から悔い改める機会を与えました。彼らにその見込みがないから神はイスラエル人たちと置き換えました。使徒パウロがかって神の計画に関して書いているように、ああ深いかな、神の知恵と知識の富は。その裁きは窮めがたく、その道は測りがたいのです。

では、イスラエルや彼らの地に関する神の偉大なる計画の次の段階を調べるようにしましょう。

 

祝福と呪詛

 

イスラエルが荒野の旅を始めるに、モーセは神の律法を彼らに提示しました。この偉大な国家の法典は犯罪を制約するばかりでなく、また貧しい者に愛と尊敬をしめし、外国人や敵たちさえ、彼らの高い道徳性を慕わさせるのでした。シナイ山の坂で、彼は、かってアブラハムが犠牲物の血で調印したように、それらの戒律を守ることに同意すると、一つの偉大な契約に調印させその民を神に結合させました。その代りに、神は彼が与えるその地で彼らは長らく幸福な生活をすることが出来ることを彼らに約束しました。しかしそれには条件があったのでした。彼らがその地を継続的に所有するにはその戒律に服従するのでした。もし、アモリ族のように、彼らがその地を暴力と血で汚すなら、彼らの租借はもう終結させるのでした。

これはイスラエルに対する次の予言を思わせますが、それはモーセが数百年間、いや数千年間にわたるイスラエルの将来の歴史を予言しているのです。神の提意に対する彼らの同意の請願書を出してみれば、それは神が声明した一連の祝福と呪詛です。彼らはその地に入るに際してその証人としてそれを声高く暗誦しまた書き残しました。それは申命記28章に書いています。その始めの14節は彼らが服従すると彼らが受けるべき祝福に関することです。その長い章の残りの部分は彼らがその契約を守るに失敗すれば、漸次的に災いが激しく増加するのを要約しているのです。始めは彼らの経済が悪くなるのです。雨が降らなくなって産物の収穫が減少する。次は彼らの敵が侵攻して来て、外国の王が彼らを治める。最後には、彼らの敵に完全に獲られて、彼らが捕虜となり、奴隷になって連れられてしまうのでした。それで、モーセは彼らに警告しました:主は地のこの果てから、かの果てまでもろもろの民のうちにあなたがたを散らされるであろう。... その国々の民のうちであなたは安きを得ず、また足の裏を休める所も得られないであろう。... 夜昼恐れおののいて、その命もおぼつかなく思うであろう(申命記28:64-66)。その節ごとに、増加する災難の目録でひどく恐れさせています。

驚くほどのことは、そのすべてがその通りに事実となったのです。40年間の荒野の彷徨のあと、イスラエルはアモリ族の地を奪ってそこに入りました。そこで500年間彼らは彼らの指導者、士師らによって治められましたが、遂には王政の国になり、初期の王であるダビテとソロモンの時代はその繁盛の極に達しました。神に対する彼らの献身と神の律法の服従は彼らに祝福をもたらしました。しかし、彼らはだんだん神から離れて漂流するようになり、隣の国々から異邦の神々を輸入してそれらを拝むようになりました。彼らは祭りやささげ物を形式的に守るだけであって、貧しい者を無視し虐待するによって、不可避的に、呪詛が噛つき始めるになりました。

隣の国シリヤとかエドムが彼らの領土に侵入しました。強いアッシリヤ帝国がユーフラテス川をわたって来て、貢ぎ物を捧げるようにさせ、その12部族中10部族の人が追放されました。

神は彼の民に対してとても忍耐しました。彼はイザヤ、エレミヤ、エゼジエルら、偉大な予言者たちを遣わして、彼らがその律法を守らず契約を破棄しているのを気つかせました。あなたがたは身を洗って、清くなり、わたしの目の前からあなたがたの悪い行ないを除き、悪いことを止めよ(イザヤ書1:16)と訴えました。しかしそれになんの反応もありませんでした。

結局、B..587年、バビロニヤ帝国がエルサレムを獲りユダヤ人たちを殆ど捕虜としてバビロニヤに連れて行きました。70年間イスラエルの地は空になりただ貧しい人たちが住みました。そのあと極小数の人がバビロニヤから戻るのが許されました。彼らは国の王もなく、ペルシャ、ギリシヤ、そしてローマ帝国に服従する属国として残りました。そのローマ帝国の圧政のもとにいた時ナザレのイエスが生まれました。

 

ダビテのその子孫

神がイエスを彼らに遣わしたのは彼の民にたいする彼の最も痛切な訴えでした。その葡萄園のたとえの話しで、イエスはイスラエル人たちを葡萄園のその農夫たちに例えて話しました。その所有主である神がその収穫の分け目を出させるために彼の僕たちである予言者たちを遣わしました。しかしその農夫たちは彼らを袋ただきにし、から手で帰らせました。そこで、葡萄園の主人は言った。どうしょうか? そうだ、わたしの愛子を遣わそう。これなら、だぶん敬ってくれるだろう。...ところが、農夫たちは彼を見ると、あれはあと取りだ。あれを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになるのだ互いに話し合い、彼を葡萄園の外に追い出して殺した(ルカ福音伝20:13-15)。イエスは彼の前にどんなことが起るかよく分かっていました。彼はまた神の怒りがすぐ彼の話しを聞いているその人たちに突発することも分かっていました。彼は、あなたがたもまた先祖たちがした悪の桝目を満たすがよいと彼らには呼びかけました。彼らの前のアモリ族のように、イスラエルは彼らの悪の壺を満たしていました。その葡萄園は他の人々に与えるでしょう。

イエスが十字架につかれた30年の後、ユダヤ人たちがローマ帝国に反抗しました。強いローマの軍隊が来てエルサレムを囲み侵攻したので街は屍が山盛りになり聖殿も破壊されました。その60年の後、AD132年の反抗には彼らの運命を決定してしまいました。数十万の人が捕虜になり、奴隷としてヨーロッパの各地に売られて行きました。その結果、ローマ帝国の各地方にユダヤ人が突然増加しました。モーセが予言したように、イスラエルはさすらうユダヤ人となり、世界の諸国で、蔑視され、羞恥と迫害を避けてこの都市からかの都市を転々するになりました。数世紀の長い間、その警告した呪詛を受け、彼らは安らぎを得ず、足の裏を休める所も得られないでした。

 

神の子にある神の目的

神の子を殺した殺人は神に対するその選ばれた民の最大の反逆でした。しかしその悪行は神の計画に予期されたいたことでした。その事件の六週後、使徒ペテロはエルサレムでユダヤ人たちに話しながら、イエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのである(使徒行伝2:23)と主張しました。予言者イザヤが遠く前にイエスの受難を書いている彼の悲痛な書、53章には、彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知

っていた(3節)と描写しています。

なぜ、神は彼の一人子を羞恥と苦痛のうちに死なせたのでしょうか?その答えは複雑ですが、先ずそれは人類を彼らの罪から救う神の計画の中心でありました。エルサレムの外にあるその丘で、神は、聖書では罪と呼ぶ、私たちの心にある人間の情欲、妬みと残酷に向かい合ってイエスの自己否定と恵みと愛を現わしました。三日間、その罪が勝利したように見えました。しかし、罪が全くなかったイエスはすぐ墓から起き上がり、彼を信ずる者たちのために死の勢力を破壊することが出来ました。彼はわれわれのとがのために傷つかれ、われわれの不義のために砕かれた。...その打たれた傷によって、われわれはいやされた(5節)とイザヤは続いて話しました。それで、神の子を殺した事を悟り、良心の呵責を受けたユダヤ人たちがそのペンテコストの日ペテロに、私たちは、どうしたらよいでしょうか?と言った時、彼は、墓から起き上がったイエスは彼らの罪を取り除くための祭物になっていると説明しました:悔い改めなさい。そしてあなたがたひとりひとりが罪の許しを得るために、イエス.キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。彼らはすぐこれに応じて、3000人のユダヤ人がバプテスマを受けました。しかし年月が去るについて、その選ばれた民の大部分が悔い改めていません。アブラハムの子孫であると言う彼らのプライドが、彼らが持たねばならない神の友と呼ばれたアブラハムの信仰に目をくらませました。

 

神は彼の民を捨てたのであろうか?

福音に対するユダヤ人たちの拒絶は遂に神がユダヤ人たちと関係を断絶してしまったように思わせる彼等の離散をもたらしました。ローマ書11章でパウロはこの問題を自分自身に精密に話しています:神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはされなかった(2節)。イスラエルが国家的には神に背中を向けているけれども、そのペンテコストの日ペテロの話を聞いた人たちのように、個人的には神に反応するものが相当おるのである。それが問題になるのであった。モーセが教えた通りに、神には数の寡多が重要でなく、量より質が重要である。それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された物がいる(5節)とかれは続けて言いました。イスラエルの追い散らしは単純にほかの新しい局面に入るのを意味していました。

ユダヤ政治的組織体がその終末によろめくにつれて、福音の呼び出しが劇的に広くなりました:その始めは、異邦人たちが永遠の神を認識する特権にあづかる招待を受けたのでした。パウロは遠くの異邦人たちに福音を伝播する最も熱誠的指導者でした。彼はアンテオケで彼の勧告を聞かないユダヤ人たちに宣言しています。神の言葉は、先ず、あなたがたに語り伝えなければならなたった。イエスに関する福音は神の民がまず聞くべき機会が与えられていました。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、私たちはこれから方向を変えて、異邦人たちに行くのだ(使徒行伝13:46)。異邦人たちはイスラエルの他の国人です。使徒たちの使役によって聖書は世界に広がり、あなたと私のような異邦人もみな神に近づけられる門が開かれました。

私たちも皆神がアブラハムと彼の子孫に与えると約束したものを受けて楽しむ事が出来る、神の選ばれた民になることが出来ます。パウロはガラテヤ書にこう話しています:もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト.イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのであるガラテヤ書3:2829)。ペテロはホセアの予言を引用してこれに加えて話しました:あなたがたは、以前は神の民でなかったが、今は神の民であり、以前はあわれみを受けたことがない者であったが、今はあわれみを受けた者となっている(ペテロ前書2:10)。

ローマ書11章でパウロはイスラエルを純粋なオリブに例えて話しています。遺憾ながらそのオリブは実を結ばないものでした。神は実を結ばない枝を切り取り、その代りに野生のオリブの枝をその幹に接木しました。この異邦のオリブは今その親木の樹液を吸い取って芽を出しました。イスラエルの倒れが異邦人の機会になっていました。

イスラエルのように、異邦人たちも、その呼び出しに応ずる者は個人たちに限られていて、その価値を十分認めていません。その残りされた者に対する原則は今も適用されています。もう一人の使徒、ヤコブは最初の異邦人、コルネリオと彼の家族を呼び出しを描写する時、それをはっきり説明しています:神が始めに異邦人らちを顧みて、その中から御名を負う民をお選び出された(使徒行伝15:14)。その出される者、その悔い改めの呼びに応じて選ばれる者はいつも少ないのです。神に受け入れられる条件は、アブラハムに与えたことのように、今も信仰と服従であります。

神の計画のこの新しい局面は、異邦人を呼び出すことであって、イスラエルの呼び出しの長い期間のように、もう2000年間も過ぎ去っています。今はその神の計画の他の局面に移ろうとしています。聖書が私たちに啓示している展開すべき将来の局面を調べて見ましょう。

 

イスラエルの帰り

イスラエルにあるTel Aviv大学のキャンパスには、Beth

Hatuphutsothー離散者の家と呼ばれる注目すべき博物館があります。それは新し優雅なビルデングでその中は最近の視聴覚の器材が一杯です。その目的は今日の若いユダヤ人たちに彼等の父祖たちが過去数世紀間世界の国々を転々しながら、如何に彼等の信仰や文化を保存して来たか、異族との交婚を防ぎて純粋を保ち、彼等の故国に帰る事が出来たか、を見せるためであります。一つの暗い球体の講堂に、映写機のライトが視聴者の上の湾曲な天井にある世界地図を照らすと、イスラエルの共同体を表わす小さな星らがアッシリヤ、バビロン、ローマへと次々に移って行くのが見えます。実際、世界のすべての国がユダヤ人たちを受け入れました。しかし数世紀が経ると、この国からかの国に迫害がユダヤ人たちを追い、その星らが怯えながら移って行くの見せています。フランス、ドイツ、スペイン、ポーランド、英国 ーそのライトが各テロの行動を示しています。ある時はそのライトが消され、イスラエルの邑が完全になくなっているの示します。それから、驚くべき小さなライトらがイスラエルの地に移り始め、20世紀に彼等が故国に帰るのを示しています。

BethーHatuphutsoth博物館のすべてのギャラリーには、世界のいろいろな所にあるユダヤ人たちの共同体の遺産で一杯ですが、北京のパゴタ形のユダヤ人の会堂、ウクライナにあるユダヤ人たちの結婚会館を再建したもの、ユダヤのラビがいわゆる宗教裁判でイエス派の祭司たちの前で助けを訴えているもの、すべての書類が焚書されてなくなっています。最も感動的なものはドイツのナチスのユダヤ人大虐殺の時死を直面したユダヤ人たちが書いている最後の言葉を収録している手紙であります。

その展示は遂に喜びの帰りである最後の段階に至ります。すべて労を惜しまないで年代順にていねいに記録しています。その始めは、帝政ロシヤ時代、Weizmannが書いた故国に関する思い、1896年、HerzlJewish Stateが出版され、1897年、シオン主義者の会議が開かれました。それからトルコ帝国の支配にあるパレステインに徐々にユダヤ人たちが帰り定着し始めました。第一次世界大戦の後英国のパレステイン信託統治はユダヤ人をもっと多く帰るように許可しました。結局、ヒットラーの圧政はヨーロッパでユダヤ人たちを住まれないようにして、それに繋ぐ多くの事件は1948年イスラエルの国家を形成させました。

私たちがよく知っているように、その驚くべき日以来、私たちの新聞やマスコミには毎日この小さい国に関する報道がない日がないのです。日本の四国よりも小さい地に三百五十万の人口が住んでいるイスラエルは注目すべき世界的事件が起り続けています。1956年、スエズ運河の危機、1967年、有名な6日戦争、1973年、十月のYom-Kippur戦闘、1984年レバノン侵攻が起りました。

一体これはみななにを意味しているか? 歴史上にある他の多くの民族は滅亡してしまったのに、神の民は生き残っているのが、ある気まぐれな偶然でしょうか?それには一つの率直な答えがあります。私たちは申命記の末にある祝福と呪詛を考察しました。そこにはモーセがこう書いています:わたしがあなたがの前に述べたこのもろもろの祝福と、のろいの事があなたに臨み、あなたがあなたの神、主に追いやられたもろもろの国民のなかでこの事を心に考え、あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、... あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。たといあなたが天のはてに追いやられても、あなたの神、主はそこからあなたを集め、そこから連れ帰られるであろう。あなたの神、主はあなたの先祖が所有した地にあなたを帰らせ、あなたはそれを所有するに至るであろう(申命記30:15)

彼等の帰りは歴史上に起った一つの事件でありません。それは愛と慈悲深い神の計画の実現です。

予言者、エレミヤこれを明らかに説明しています:主は言われる、わたしはあなたと共にいて、あなたを救う。わたしはあなたを散らした国々をことごとく滅ぼし尽くす。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはしない(エレミヤ書30:11)。その言葉はとても真実です! イスラエルを追い散らしたアッシリヤ、バニロニヤ、そしてローマ帝国はみな消え去りましたが、ユダヤ人は生き残りました。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくした(エレミヤ書31:31)とその予言者は続けてはなしました。

またエゼキエルもこう予言しています:わたしはあなたがたを諸国民の中から導き出し、万国から集めて、あなたがたの国に行かせる。わたしは清い水をあなたがたに注いて、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、... 荒れた地は、行き来の人々の目に荒れ地と見えたのに引きかえて耕される(エゼキエル書36:24-26,34)。

旧約聖書にはこような予言がたくさんあります。そのすべてが今日私たちが見ているような彼等の帰りの局面を描写しています。それはみな疑いなく神の使役であります。

では、なぜ神はユダヤ人たちを彼らの故土に帰らせねばならなかったのでしょうか?なにがそれを導いたのでしたか?それに対する答えは最もドラチックなことであります:すなわち、神の国が来ることです!この考えに対して、あなたはあざ笑うかも知れませんが、天使ガブリエルがイエス母親であるマリヤに伝えた言葉を聞いてごらんなさい:彼は大なる者となり、いと高き者の子と、となえるでしょう。それで、主なる神は彼に父ダビテの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう(ルカ福音伝1:3233)。では、イエスがこの世にいた時ユダヤ人たちを支配してことがありますか?勿論なかったのです。彼らは私たちには、カイザル以外に王はありませんと叫びました。そして彼らはイエスに背き、十字架につかさせました。

しかしイエスは死人の中から不死の命を持って蘇りました。とこしえに支配する王は不死の体が必要です。ガブリエル天使の予言が成就するにはダビテの位がいたエルサレムに不死のイエスが帰って来て、ユダヤ人たちが住んでいる地を治めねばなりません。100年まえには、これが不可能であるように思われました。ユダヤ人たちはなお散らされており、トルコ帝国がその聖地を統治していました。今日、私たちは4百万に近いユダヤ人立ちがその地に住んでいるのを見ます。エルサレムはイスラエルの首都になりました。イエスが彼の使徒たちに約束したことを考えて見ましょう。私の父が国の支配を私にゆだねてくださったように、私もそれをあなたがたにゆだね、私に国で食卓について飲み食いをさせ、また位にに座したイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう(ルカ福音伝22:2930)

ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、そして彼らの追従者たちに与えるべきこの祝福が成就するには彼らが死人の中から蘇らねばなりません。彼らのの生涯イスラエルを治めた事がありません。まだイエスと共に彼らに治められるイスラエルが存在せねばなりません。今日はこのすべてが成就可能になりました。イスラエルは生き残り、そして神はその国を準備するためにイスラエルを彼らの地に帰らしました。

(ルカ福音伝12:1127この人が王になるのをわれわれは望んでいない それはエルサレムに近づいて来られたし、また人々が神の国はたちまち現れると思っていたためであるエルサレムはタビテの位がいたところでした。弟子たちはイエスがその王であり、其処で統治することを信じていました。

しかしその時はまだ来ていませんでした。彼は人間の罪のために死に、死から蘇り、そして19世紀の長い間父の右側に行かねばなりませんでした。イエス自身がその身分の高い人であって、遠い所天に行きました。彼の民であるユダヤ人たちは、その比喩で話しているように彼を拒絶しました。しかしその結末はどうなったのですか?その身分の高い人は王位を受け、帰り来た時、彼の家族をより集めて、彼の忠実な僕たちを栄誉ある位置に昇進させ、彼らの能力によって、十の町、あるいは五の町を治めるようにしました。同時に、彼の敵は殺してしまいました。その高い身分の人の帰りがま近くなりました。彼の検閲の日のために準備せねばなりません。

 

将来に対する展望

今まで、過去20世紀間にわたる神の計画を追って来ました。聖書は私たちにカーテンをあげて、今日の世に代り神の国が始まる時に起る一連の事柄をあらかじめ見ることが出来るようにしています。それらを知らせる多くの予言があります。それは丁度一つ大きいはめ絵のピースを組み立てるようなものです。その絵によって輪郭は明らかですが、そのピースを未だに完全に組み立てていません。

最初に、ユダヤ人たちが彼らの王になるイエスに合う民になる前に彼ら自身霊的再生の経験が必要であります。彼らに一つの嘆かわしい事実は彼らが離散と迫害を受けた間、多くの者が神に対する献身を放棄したまま戻って来たことです。彼らが本当に神の民となる前に心に大きな変化があるはずです。私たちはエゼキエルが彼らの帰りを描写しているその美しい文章でそれを見ることが出来ます:わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像からきよめる(エゼキエル書36:25)。マラキは主の大いなる恐るべき日が来るまえに(マラキ書4:56)、神の民をイエスの来臨に準備させるために、バプテスト.ヨハネのような予言者エリヤが遣わると書いています。

疑いなく、一世紀のように、彼らの小数の人がこのメッセージに応じるでしょう。しかし彼らの多数の人には次のようになるでしょう:炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽くして、根も葉も残さない(マラキ書4:1)。イスラエルの地に住んでいるユダヤ人たちを清める大変革が多くの国の軍隊の大侵攻で起ります。その連合軍はイスラエルの栄冠であるエルサレムを攻撃してそれを捕らえます。これに関する多くの句節を見ることができます。わたしは万国の民を集めて、エルサレムを攻め撃たせる。町は取られ、家はかすめられ、女は犯され、町の半ばは捕らえられて行く(ゼカリヤ書12:2)とゼカリヤは書いています。これに加えて、わたしは万国の民を集めて、これをヨシャバテの谷に携えくだり、その所でわが民、わが嗣行であるイスラエルのために彼らをさばく(ヨエル書3:2)と書いています。エゼキエルはメセクとトバル(ロシアの昔の名前)の君主ゴグに話しています:あなたは立ちあがり、北の果てのあなたの所から来る。多くの民はあなたと共におり、...あなたはわが民イスラエルに攻めのぼり、雲のように地をおおう(エゼキエル38:1416書)。しかしその侵攻はイスラエルに対抗するばかりでなく、神自身と、そして彼の子に対抗するのです。ダビテはその状況を詩編2章でこのように唄っています。地のもろもろの王は立ち構え、もろもろのつかさともに、はかり、主とその油そそがれた者とに逆らって言う、われらはかれらのかせをこわし、彼らのきずなを解き捨てるであろうと(詩編2:23)。

その日はイスラエルの暗黒の日となるでしょう。町々が取られ、多くの人が殺され、捕虜となるでしょう。しかしその結果は明らかです。その苦痛の時、イエスが彼らの救い主として彼の民に現れるのです。彼は彼等を敵から救うばかりでなく、彼らの罪を赦してくれるのです。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように彼のために痛く悲しむ。...その日には、罪と汚れとを清める一つの泉が、ダビテの家とエルサレムの住民とのために開かれる(ゼカリヤ書12:10; 13:1)とゼカリヤが示しています。使徒パウロこれを引用して次のように話しています。救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう(ローマ書11:26)。

エルサレムを攻撃して囲んでいた敵を滅亡させるやえい方が一般的でないですが、その効果はすごいものです。その地に一つのすごい地震が起って、オリブの山が裂け、地下から火が出て来てその大軍を焼滅してしまいます。すなわち万軍の主は雷、地震、大いなる叫び、つむじ風、暴風および焼きつく火の炎をもって臨まれる。そしてアリエル(エルサレム)を攻めて戦う国々の群れ、...夢のように、夜の幻のようになる(イザヤ書29:6,7)。エゼキエルはその屍体をみな埋めるに七ヶ月かかるとはなしています。

その続きははっと思わせるようなものです。ユダヤ人たちが彼に帰り彼と和解し罪の赦しをしかし彼らは遠い国々でわたしを覚え、その子供らと共に生きながらえて帰ってくる。わたしは彼らをエジプトの国から連れ帰り、アッスリヤから彼らを集める(ゼカリヤ書10:910)。主は国々のために旗をあげて、イスラエルの追いやられた者を集め、ユダの散らされた者を地の四方から集められる(イザヤ書11:12)。

その時エルサレムは主のみ位ととなえられ、万国の民はここにあつまる(エレミヤ書3:17)。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。彼は多くの民の間を裁く(ミカ書4:23)、正義をもって貧しい者をさばき、...そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。...彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである(イザヤ書11:4,9)。

 

砂漠が変わって薔薇が咲く楽園になる

いよいよ神の計画がその絶頂に来ました。数千年の準備の後、その国の民が集まるようになりました。その神の国を帝王と共に治める指導者たちと君主たちはみな死人の中から起き上がったすべての時代の忠誠な弟子たちです。またその臣民は回復されたイスラエルとその時生き残られた諸国の人々です。ついに、神が大陸らの中枢に位置するその小さい地を選んだ理由がキリストの世界統治の本部を形成するためであることが明らかになりました。神がアブラハムと彼の子孫にした約束、それは遠い昔のことですが、神は忘れることなく完全に成就しました。

イエスが虐待される者たちを救い、世界中の人にお互い愛することを教えるによって、神が約束したその祝福は地に満ち始めるのであります。砂漠は花が咲く楽園になり、森林も飢えた者に食量与える物を生産するになります。国のうちには穀物が豊かにみのり、その実はレバノンのように山々の頂に波打ち、人々は野の草のごとく町々に栄えるように(詩篇72:16)。わが民の命は、木の命のようになり、わが選んだ者は、その手のわざをながく楽しむからである(イザヤ書65:22)。

すべの人が楽しむことが出来る将来を期待するのは、なんと栄光の絵を見るのでしょうか!この世は絶えまのない戦争や暴力から解放され、疾病や涙や苦痛がなくなるでしょう。あなたは目の麗しく飾った王を見、遠く広い国をみるとイザヤは予言し、あなたの目は平和なすまい、移されることのない幕屋エルサレムを見る(イザヤ書33:1729)。主にあがなわれた者は帰って来て、その頭に、としえの喜びをいたたき、歌いつつ、シオンに来る。彼らは楽しみと喜びを得、悲しみと嘆きとは逃げ去る(イザヤ書35:10)と彼は結論しました。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する(ヨハネ啓示録20:6)とヨハネは啓示録に書いています。その時、イエスと彼のインモータルを着た君主たちが地を治めるでしょう。キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは,支配を続けることになっているからである。最後の敵として滅ぼされるのが、死である(コリント前書15:2526)。その国には疾病や飢饉が制約され寿は長らくなるけれども、死の原因である、すべの罪が人たちの心から根扱ぎされて取り去られるまで、死は残っています。そしてその栄光の末を見る者たち、時間界の向こう側で永遠に生きる者たちは、神と彼の子イエスと永遠に一つになるでしょう。

聖書が話している神の国は今町の角に展示されていますが、その招待はすでに広がって、私たち知っているように、2000年の間すべての国民が呼ばれ、それを準備するようにしています。私たちがそこに入るためにユダヤ人になる必要はないのです。私たちが必要なことはただアブラハムが持っていた信仰を持ち、神に服従することです。

イエスは彼の一つの比喩で、神の国は婚宴を催すようなものであると話しました。そこに人たちが呼ばせたが、人たちはこようとしなかった。だから、待ちの大通りに出て行って、出会った人は誰でも婚に連れて来ました。私たちが国家の主権者や大統領に招待されて食事を共にするというのはとても素晴らしい栄誉です。事実は、私たち皆がそれよりももっと偉大な方から招待をうけているのです。聖書を通して、私たちは神の国の王であるイエスと共に食事するように招待をうけているのです。通常私たちが結婚式に招待されると新しい礼服を来て行くのです。しかしこのケイスでは、その招待者自身その礼服が準備してくれました。イエス自身の血が私たちの罪を覆う覆いであり、私たちはバプテスマによって、ただそれを着たら、すべての罪が清められ、神の前に立つことが出来るのです。キリストの合うバプテスを受けたあなたがたは、皆マキリストを着たのである(ガラテヤ書3:27)とパウロは書いています。

 

来るべき神の国

彼は、もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである(ガラテヤ書3:29)とその話を続けています。神が彼の国でイスラエルに現せる慈悲と容赦を今日受けることが出来るのを想像して見なさい。すべての美しさが回復したアブラハムの地の相続者と、またダビテの位の共同相続者となり、国々が平和に住む世界の時が来るのです。

しかし初めに警告があります。イエスの来臨は裁きの日、その帝王である、イエスによってユダヤ人たちと異邦人たちの心を調べてみる時です。私たちはその日のために準備せねばなりません。パウロ神の正しい裁きの現れる起りの怒りの日、耐え忍んで善を行って、光栄と誉れと朽ちぬものとを求める人に、永遠の命が与えられ、他方では、...真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる(ローマ書2:5-8)と警告しました。神の国で、栄光、栄誉、不死これらが皆私たちのものです。パウロは彼の最後の手紙に、この偉大なる報償を描写して、今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりでなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう(テモテ後書4:8)と結論しています。

イエスのあらわれる日が間近になりました。私たちが神がアブラハムにして下さったその素晴らしい約束を握ろうとしているのを止めるものはこの世界になにもありません。彼の偉大な計画を通す道は準備されています。彼は彼の民、ユダヤ人の歴史を通して、私たちが信頼出来る彼のみ言葉 ー聖書に含まれている福音のメッセージを私たちに示しています。しかし私たちはそれを信じ、バプテスマ受けねばなりません。信じてバプテスマを受ける者は救われる(マルコ福音伝16:16)。

http://www.christadelphia.org/pamphlet/israel.htm