世界の世継ぎと

約束された人

The man who was promised the World
H.P. Mansfield

 

「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのである」(-マ書4:13)

 

神が私をこの世界の世継ぎと約束してくださった。 これは限りない広大な約束をあらわす言葉です。 だから時々それは夢想家のうわ言だ、気違いの空言だと私に恥じをかかせます。しかし私はこの世界の世継ぎとなるであろうと意気強く強弁するけれども、実際今はその約束の何も得ていないのです。

この世の多くの約束がそのようです。 危急な時に助けてくれると公言する親しい友達も必要な時には捨てて顧みないし、政治家は選挙の前には素晴らしい政策を公約するが当選したらその公約は皆破るってしまう傾向があります。 戦時、政府は兵士達によりよい厚生を約束しますが、平和になれば彼等の要求を黙殺してしまうのです。現代の科学もまた人類の飢餓よりの解放を約束しますが、第三の世界の多くの人は夜毎に飢えた腹を抱えて寝所に入ります。

多くのキリスト教.聖職者達が彼らの会衆に「天の霊魂界」と言うのを約束しますが、その約束を証すことが全然出来ないのです。尚更それは私達の体の贖いが必要でないと言うことであって、人間が嫌っている死の問題を避けて、作り話の霊魂世界を紹介するに過ぎないのです。それは漠然たる架空の所で、若しも、宇宙に流離う体のない無形の状態のいわゆる魂があるとすれば、それはとても退屈でしょう。 人間が死んでその体は墓で腐つてしまい、唯無形な状態で何処かに居るのだとすれば、その人生は何の味も、楽しみも、幸福もない無意味なものでしょう。

そもそも聖書にはそんな約束は全然ないのです。 霊魂不滅と言うのを論じたことがないのです。 人間にはただ生と死があり、この両者は永遠であり、永遠の生と永遠の死亡たけがあると話しています。 この二者択一の問題は、私達が体を持って住み生きているこの地上で決定されると教えています。エホバの神は永遠に生きる肉体的復活と、永遠な世継ぎの素晴らしい望みを私達の前に設けられているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

考古学者、L.Woolley氏によつて発掘された、カルデア.ウル市の遺跡:神はアブラハムに、「そこから出て私が示す地に行きなさい」と言われました。 彼は神のその言葉に従たがい故郷を出て、神が示した地.カナンに入ることになりました。

 

「この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着る時」(コリント前書15:53)人間は死と墓を負かした勝利者になるのであります。 聖書は人間の死が人類の始祖アダムによってこの世に入りましたが(ローマ書5:12 参考)、永遠の生命をもつ体の復活がキリスト.イエスによって開かれていると教えています(コリント前書15:2223 参考)。 イエス.キリストの復活は、その信者達の望みの原型であるのです。

「若し私達が、彼に結び付いてその死の様に等しくなるなら、更に、彼の復活の様にも等しくなるであろう」(ローマ書6:5)

「最初はキリスト、次ぎに、キリスト来臨に際してキリストに属する者達であります」(コリント前書15:23)

「私達の卑しい体を、御自身の栄光の体と同じ形に変えて下さるであろう」(ピリピ書3:21)

神がすべての人々に約束して下さったことは、即ち、アブラハムに約束して下さったそのことであります。 それは将来この世界の世継ぎになるとの約束であります。その世継ぎになるにはいくらかの条件があります。その条件を教えしましよう。

 

信者の手本となつたアブラハム

それでは、アブラハムはいっつたいどんな人物だったのでしょうか?

聖書に幾百遍も引用された信心深い人アブラハムは神の目的を果たしたとても重要な人です。実際、彼に対する神の約束を知らなければ聖書を正しく理解しているとは言えないのです。

彼に関して、聖書は次のように記録しています。

「彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することが出来ると確信した。 だから、彼は義と認められたのである。 しかし義と認められたと書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、私達のためでもあって、私達の主イエスを死人の中から蘇らせた方を信ずる私達も、義と認められるのです」(-マ書4:2024)

アブラハムは神を信じ、その信仰は強められ、神を賛美しました。彼の信仰の手本は、永遠の生命を渇望する信者すべてが追求しなければならないものです。 彼の信仰の過程を研究するによって、神がどういう人を願っているかを知るでしょう。

 

ウルから呼び出した

アムラハムに関する記事は、彼が故郷ウルで神のお召しを受け、その偶像崇拝の環境を離れて、神が示した領地に入る時から始まります(創世記12:13 参考)

カルデア.ウルは、1922年、英国の考古学者 L.Woolley氏が、大英博物館の依頼で、ユーフラテス川の丘に設立されていたその古代都市の遺跡を発屈する迄はこの世に全く知られていなかったのです。その廃墟は既に百年も前に発見されましたが、詳しいことは知られなかったのです。 そこは永い年月が流れる間、砂漠の砂に覆われて原型を留めていない大きな土盛りとなっていました。 しかし、Woolley氏がその積もっていた土盛りを発堀してその廃墟を持ち出して、昔の華やかな高度の文化都市が現れました。 だからある人が言う如く、アブラハムは未開の無知な遊牧民ではなく、高度の文明社会の一員であったことが明らかにされました。

ウルはその全盛期にはカルデアの文化.学問の中心地でありました。 各分野にわたる数千冊の蔵書を備えていた図書館が発堀されました。 その都市に関して歴史家達はそれが過去の廃墟の上に再建されていたものであると言っています。 そしてそれは昔大洪水の以前のもので、多くの証拠がそこの地層を深く堀出す時に発見されたと考古学者 Woolley氏は述べました。 また彼はその都市は月の神を崇拝していた国の首都であって、政権は王族が握っていて、更にその隣の都市も支配していたと言いました。 それ以前まではウルの存在自体が憶測に過ぎないものでした。 今はそれが全く疑う事が出来ないことになりました。 その発堀によって、聖書の中で最も重要な人物であるアブラハムの生涯は事実と証明されました。

この数多くの証拠からアブラハムが偶像崇拝の環境で成長したことが確かめられました。 彼はもと作り話の神を礼拝していましたが、後はその神の礼拝を拒み真の神エホバを拝むようになりました。 アブラハムに因って造り上げた国.イスラエルに対して次の様に言っています。

「そしてヨシュアはすべての民に言った、イスラエルの神、主は、あなた方の先祖達、即ちアブラハムの父、ナホルの父テラは、昔、ユーフラテス川の向こうに住み、皆、他の神々を仕えていたが、私は、あなたがたの先祖アブラハムを、川の向こうから連れ出して、カナンの全地を導き通り、その子孫を増した」(ヨシュア記24:23)

とうして神はそのような環境からアブラハムを呼び出したのでしょうか。 なぜ神はどの人よりも彼にこの栄誉を与えようと選んだのでしょうか。 神は彼が生涯を貫いて神の目的を形作る資質を持っていることを分かっていました。 後、それと同じ様に、神はクリスチンの大虐殺者であり、高い道義の人だったパウロの心にもそのようなものがあるのを探し出しました。 彼はキリスト教に改宗した後、その以前真理に逆って注いでいた情熱を逆にその真理守護に注ぎました。 このような神の呼び出しは、アブラハムに偶像崇拝の故郷を捨てて、真理を追い求めるようにさせました。

彼は父テラ、兄ナホル、甥ロト、彼の妻サラと共にカルデア.ウルを離れて、ペルシャ湾から小アジア迄、600マイルの道程のユーラテス川に接しているキラバン隊商のルートに沿って西北の方に進み、遂にハラン市に到着しました。

 

アブラハムの人生岐路

アブラハムの生涯で彼が留った所の名称はすべて意義があります。 その名称は皆アブラハムの生涯に起こった記事を打ち明かし、例証しています。 また神が受け入れる礼拝者のタイプであるアブラハムの信仰を説明しています。例えば、カルデア.ウルはカルデアの光と言う意味で、「光と知識」は聖書では同義語ですから、アブラハムがカルデア.ウルを離れたのは、そこの知識文化に背中を向けたことを意味しています。 それと同じく今もエホバの神は信者達が現代の哲学.宗教に背中を向けることを要求しています。カルデアは占星術が盛んな所でありました(ダニエル書2:25 参考)。アブラハムは真の神が受け入れる礼拝を上げようとすれば、そこを離れなければなかったのです。 結局彼はそこを立ち去りました。

ハランとは「道」或は「啓蒙」と言う意味で、人が行かなければならない道を照らすと言う意味です。 実際、当時のハランは隊商達のルートのターミナルであって、多くの分れ道がある十字路が東西に走っていました。 そこはアブラハムの生涯に於いてとても大きい意味を持つ霊的分岐道が有った所でした。 テラの家族は指し示す所に行きなさいと言う神の示しを受けてカルデアを立ちました(創世記12:7;使徒行伝7:2参考)。 それは部分的従順でありました。 彼らはある程度光に従って行きましたが問題が起こったのです。 それはそのまま続けて進むべきかと言うことでもありました。

彼らがもっと前進するには信仰と勇気が必要でした。 ハランはバビロニアの前しょう地点であって、神が命じたカナンの地に入るにはユーフラテス川を渡らなけばなりませんでした。 そこに行く事は、彼らに安全であり、極めて親しい人達が住んでいる故郷を捨てて、何の保証もない、未知の不確定なことに挑戦する事でありました。

しばらく彼らはハランに留りました。 そこでどんなことが起こったかはなにも記されていません。 恐らくその前進に対する抵抗があったようです。 その間に一行の中の年老いた父親テラが死んでしまいました。 そしてアブラハムはもう一度神の示しを聞くことになりました。

「あなたは生まれた故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」(創世記12:1)

その「父の家と親戚達を離れなさい」というお召しには、その家族の一部が、故郷と同族を離れて、ユーフラテス川を渡って神が示す地に行けと言う指示に逆らったことを暗示しています。旧約聖書のヘブライ語ではその示しの緊急性を強調してその句を命令形にしています。 それはアブラハムに逆らってそこに留まろうとした家族達の意志にかかわらず、彼自身で決行しなさいと言う意味があります。

その神の命令は後に「尊く素晴らしい約束である」と記されています(ペテロ后書1:4 参照)

「私はあなたが大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。 あなたは祝福の基となるであろう。 あなたを祝福する者を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。 地上の凡ての氏族は、あなたによって祝福される」(創世記12:23)

使徒パウロはガラデア書にこの約束は神がアブラハムに伝えた福音であると教えています(ガラテア書3:8 参考)。 読者はパウロのその言葉を深く吟味して下さい。 神がアブラハムに約束した事を理解していないということは、神の救いの福音を分かっていないと言うことです。 その約束は神が人類を死から救う方策を示しています。 聖書は「アブラハムに約束したものを確認するためにキリストが来られた」と教えています(-マ書15:89 参考」。 この福音を受け入れ信ずる人達に死者の中から復活して永遠の生命を得る道が開かれています(ペテロ后書1:4;コリント前書15:12)

その約束はまた私達を強く鼓舞する事があります。 今日その約束が次第に成就しつつあるのを誰も確実に立証することが出来るのです。

アブラハムに約束した神の示しを要約すれば次のようです。

1.国家的約束:「あなたを大いなる国民とし」、

2.個人的約束:「あなたを祝福し、あなたのはを大きくし、

祝福の基となるようにする」。

3.相互的約束:「あなた祝福する者を祝福し、あなたを呪

う者を私は呪う」。

4.国際的約束:「地上の氏族は凡て、あなたに因って祝福

される」。

実は今日このアブラハムの約束は何も完全に成就していないのです。 アブラハムの子孫イスラエルは偉大な国家に成ったことがなく、彼自身は死んでしまい、彼を祝福する者もなく、また国家間には敵対と暴力が絶えず、人類全体は祝福よりはむしろ呪いの状態であります。

それでも私はその約束は信頼すべきものがあると論証することが出来ます。 その約束の一部が既に成就されているからです。 私は読者がその約束に関する事を研究して、それが聖書の謎を解く素晴らしい鍵であることを分かるように願っています。

 

現在、立証出来る約束

その約束の始めの部分: 国家的約束に対して考えてみましょう。 イスラエルの国民、ユダヤ人達はアブラハムの子孫であります。しかし彼らの波瀾に満ちた永い歴史の中でアブラハムにして下さったその約束は何も実現されたことがありません。 彼らは決して偉大な国家に発展したことがないのです。 ダビテとソロモン王の時代に、いく年か栄えある国となったことがありますが、それは短命に尽きてしまい、内乱によって国が南北に分裂してしまいました。 その後も継続的背反によってエホバの神は彼らを捨て、その警告したように、彼らは世界中に散らされました(申命記28:49526367参考)

そこに幾らかのイスラエル人達が残っていました。 しかし驚くべき歴史の現象が起こりました。 彼らの国は滅亡し国民殆どが異国中ににまき散らされて住むようになりましたが、彼らは決して他の国民に同化されませんでした。 彼らが、中国、アメリカ、或は、ヨーロッパの何処に住んでいてもユダヤ人として残っていたために異邦人達に憎まれました。

神の警告のように、彼らは「諸々の国民の中で驚きとなり、ことわざとなり、笑いの草となりました」(申命記287:37)。 聖書の予言が事実に成就しました。 彼らは住む処でいつも困難に迫られていたし、独裁者ヒットラ-のような者は果たせなかったけれども、その部族を抹殺しよとしました。 このような神のお言葉があります。

「私はあなたと共にいて、あなたを救う。 私はあなたを散らした国々をことごとく滅ぼし尽くす。 しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはしない。 私は正しい道に従ってあなたを懲らしめる。 決して罰しないではおかない」(エレミヤ書30:11)

このお言葉と共に、あなたがたを故郷に連れて来、「末の日にあなたがたはこれを悟るのである」と神は宣言しています。

その「末の日」である今日、イスラエルは一つの国家です。 聖書の予言とアブラハムにした約束と一致して、1948年、ユーエンの宣布よってその国は設立されました。 次のお言葉の意味を吟味して下さい。

「あなたは彼らに言え。 主なる神は、こう言われる、見よ、私はイスラエルの人々を、彼らが行っていた国々から取り出し、四方から彼らを集めて、その地に導き、その地で彼らを一つの民となしてイスラエルの山々に居らせ、一人の王が彼ら全体の王となり、彼らは重ねて二つの国民と成らず、再び二つの国に分かれない」(エゼキエル書37:21-22)

その約束が漸次的に成就しているのに注意して下さい。

. -その人々が故土に帰って来ました。

. -その国が復活しました。

. -ではその王国が設立するでしょう。

イスラレエル民族は酷く残忍な迫害にもかかわらず生き延びて来たことを歴史が明かしています。 そして今日一つの国として再建していることを世界が立証しています。 第一次世界大戦後、ユダヤ人達が彼らの故土に帰り始めたことを知ります。 第二次世界大戦後には、それが一つの国として再建したことを目撃しました。 第三次世界大戦後には、その王国が設立されるのを見るでしょう。

それでは、誰がその王国の帝王となるでしょうか? その方は1900年前、彼らが十字架につけたイエス.キリスト様です。 彼はユダヤ人の王として生まれ,その王として死にました(マタイ福音書2:2;27:37参照)。 彼らはロ-マ帝国のカイゼルを支持して彼らの国王の威厳を拒否しました。 しかし彼はエルサレムで帝王として治めるために間もなく帰って来るでしょう。 だからその預言者は次のように預言しています。

「エルサレムはエホバのみ位と称えられ、万国の民はここに集まる。 即ちエホバの名のもとにエルサレムに集まり、重ねて、頑なに自分の悪い心に従うことはしない」(エレミヤ書3:17)

なぜ神はユダヤ人達にこんなことをしたのしょうか? 彼らを従順させるためでしたか? 決してそうでないのです。 またご自分を敬ませるためでしょうか? そうでもありません。 それに対して聖書は次の如く話しています。 「一部のイスラエルが頑なになったのは、異邦人が全部救われる時までのことであって、こうして、イスラエル人は、全て救われるであろう」(-マ書11:25-26)

それでは、なぜ神はアブラハムにそんなに約束したのでしょうか? 彼に約束したのはまた世界全人類に約束したものであるからです。

これの認識はエホバの神の目的を理解する鍵であります。 此れは神ご自身が確実なお言葉で定めたのであるからです。

「主エホバはこう言われる、イスラエルの家よ、私がすることはあなたがたのためではない。 それはあなたがたが行った諸国民の中で汚した、わが聖なる名のためである。...私はあなたがたを諸国民の中から導き出し、万国から集めて、あなたがたの国に行かせる」(エゼキエル書36:2224)

その時、イスラエルが彼の帝王キリスト.イエスのもとで完全に回復し、その国が決して経験したことのない偉大さと栄えに至るであろうと神は啓示しています。

「私はあなたを大いなる国民にする」と言った神の約束が成就されているでしょう。

そしてアブラハムは「あなたの名を大きくする」と神が宣言したことをを見るでしょう。 神は彼に永遠な生命を与え、この世界の世継ぎにするために彼を死人から引き上げると約束しました。 キリストのお帰りとイスラエルの完全な回復は、全人類に神政の祝福をもたらす新秩序を世界に敷くのであります。 それでアブラハムに約束した四つの局面は完全に成就されるのです。

今日、とても私達の信仰を刺激し、その栄えある望みに確信を与える事件が起こっています。 特に中東地域に起こっているのです。それはアブラハムに約束したことの影に過ぎないわずか一部の立証であります。 しかしこれはその約束の成就を完全に保証するのです。 「エホバはシオンを築き、その栄光をもって現れ、乏しい者の祈りを顧み、彼らの願いを軽しめられないからです」(詩篇102:1617)

私達は何も疑わず、唯神の道について行けばいいのです。 それは聖書が約束したように正確に現れるでしょう。

 

信者達の予表であるアブラハムの家族

神の命令に注意し、その約束が動機となって行動を始めたアブラハムは少しもためらず、行動しようとしない親戚達を捨てて、ハランを立ち、ユーフラテス川を渡ってカナアンの地に配入りました(創世記12:4-5参考)

彼の道程を辿って行く前に、神のお召しを受けてウルを立ったその四人について考えてみましょう。 彼らは皆神の福音のメッセージ受け入れ、この世と分かれて信仰生活を始めた人達の表象です。アブラハムの父テラ、その名前は「遅滞する」または「延期する」と言う意味で、その意味の如く、彼は永らくバビロニアでためらい、そこで死んでしまいました。 その兄ナホル、彼の名前は「いびきをかく者」と言う意味で、その名前のように、彼は神のメッセージとかその約束に全然気をつけていなかったのです。 霊的に言えば彼は救いを切に考えていない人でした。ロト、その意味は「隠された」と言うことで、彼は始めに叔父アブラハムの導きに従って信仰生活を保ちましたが、その約束のビジョンが隠れ、結局ソドムの罪悪の環境の中に迷い込んでしまいました。 彼は神の招待を受け入れて(アブラハムがユーフラテス川を渡ったように、バプテスマ を受けて)、信者になりましたが(マルコ福音書16:16)、 結局この世の圧迫に倒れた人の表象です。 信仰の人アブラハム、彼の名前は「高められた父」と言う意味で、彼は神の督促に呼応してその川を渡って行きました(創世記18:19参考)

神の呼び出しを受けてこの世を立った者は誰でも皆この四つのタイプの人の一人であります。 死ぬまで決定を延ばしていたテラ、福音に関して何の関心もなかったナホル、ロトの如くビジョンが隠され、素晴らしい望みを逃した人、または高められた父、アブラハムの信仰に従う人です。

 

ヘブライ人、アブラハム

アブラハムは神の呼び出しに呼応して、ユーフラテス川を渡ってその約束の地に入ることによって彼の身分は改まりました。 彼はヘブライ人と呼ばれる様になりました(創世記14:13参考)。 ヘブライ人とは川を渡って来た人と言う意味で、「分離された人」と言う意味です。 カナアンの人達はアブラハムを彼らの中に留っている「旅人」だといいました。 アブラハムは彼らに属していた人でなく、「川を渡って来て」、「分離されていた人」でした。 即ち死に至る道を離れて生命の道を開いた人です。 その時そこに住んでいた人達は真の神エホバや彼の言葉を敬っていませんでした。 彼らにも宗教はありましたがそれは造り話しの神を敬うものでした。 アブラハムは「旅人」、「宿る者」として彼らの中に住んでいました。 彼は分離された生活をしたから宿る者であり、また行くべき処を分かっていたから旅人でありました。 彼の生涯には確実な目的があり、その大きな望みは何時も彼を刺激し鼓舞しました(ヘブル人書11:1319参考)

彼は「信者の父」と呼ばれています(-マ書4:11参考)。 それは神のエケレ-シャの基礎を置いたことを意味しています。 「エケレーシャ」と言う言葉は新約書では「教会」としています。 それは集会の建物を言うのではなく、アブラハムの信仰に従って彼の信仰の足跡を追い求める人達の団体です。 即ち神の福音を聞きそれを受け入れて、この世から出て来た神の会衆を意味します。

使徒時代エケレ-シャはアブラハムがハランを出て来たようにその時代の宗教、社会、政治から出て来た会員で構成されていました。 例え肉体的には異邦人であっても信仰によってヘブライ人になりました(エペソ書2:11参考)。 彼らは「イスラエルの望み」を持っていました「使徒行伝26:6-7;28:20参考)。 彼らはイエス.キリストの内にある生命の道に入るために、この世の死の道を捨てて、アブラハムの信仰を確認していました(-マ書4:11;ヨハネ福音書8:39;ガラテア書3:829)。 彼らの身分を聖書は、「神が始めに異邦人達を顧みて、その中からお名を負う民を選び出された」と言いました(使徒行伝15:14)。 永遠な生命に関する神の約束を聞き、その招待に応ずる人々に神は次のように命令しています。

「だから、彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。 そして、汚れたものに触れてはならない。 触れなければ、私はあなたがたを受け入れよう。 そして私は、あなたがたの父々となり、あなたがたは、私の息子、娘となるであろう。 全能の主が、こう言われる」(コリント后書6:17-18)

これが永遠の生命に至る道であります。 それは多くの犠牲を要求していますが、その報償は今の世と来たるべき世で百倍も受けられます(マタイ福音書19:28-30;マルコ福音書10:30参考)。 私達が神を喜ばすためにこの世から分離するのは肉体的に場所を移るのでなく、この世の社会、政治、宗教から分離することであります。 この世の死の道から命の道に入る行動はキリストの中にある真理を受け入れ、バプテスマを受けることから始まります。

「そしてかれらに言われた、全世界に出て行って、凡ての造られた者に福音を宣べ伝えよ。 信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ福音書16:1516)

アブラハムの呼び出しには、それを受ける凡ての人々に必ず果たせなければならない一つの挑戦が制定されています。 その挑戦は、アブラハムの如く、不敬虔なこの世から遠ざかり、神に献身することであります。

 

約束の地に入る

アブラハムは神の呼び出しに呼応して約束の地に入りました。聖書は当時その地にはカナアン人が住んでいたと記しています(創世記12:6;13:7)

此れは大したことではないように思われますが、とても深い意味を持っています。

そのカナアン人はとても腐敗した不道徳な人達でありました。人類学者は彼らが宗教を持っていたと言いますが、それは真の神を敬うのではなく、造り話しの神を敬うのでした。 彼らはその約束の地を支配していましたが、そのは社会は堕落していました。

アブラハムは彼らから完全に分離して、そこに住みました。

真のキリスト教信者は彼の如く現在の社会、政治、そして宗教的すう勢からの離脱を要求されています。 今は罪悪に満ちた時代で、節制をあざ笑い、放棄してしまいました。 神とか彼のお言葉は少しも尊重していません。 人間本来の悪性を外観的には隠して得ていた以前の薄い尊敬の飾り付きも今日は全く捨ててしまいました。 キリストが警告し(ルカ福音書17:26-29)、聖書が予言したように(テモテ后書3:1-5)、人間社会は罪悪で完全に非情な状態になりました。 犯罪、不道徳、暴力がその極に至り、人類がぶつからなければならない運命のコースに入っています。 ハルマゲドンと聖書に詳述している破滅の危機に向かって走っているのです。

人間にとって最も賢明な道はアブラハムの信仰の足跡に従うこと生活するのであります。 彼の霊的展開の階段は次のようになっつています。

1.彼はもと造り話しの神を敬う偶像崇拝者でした。

2.彼は真の神の呼び出しに関心を持ち、その意義を悟り、以

前の生活の愚かさを切実に認識しました。

3.彼は神の約束を通してその福音を完全に理解することが

できました。

4.彼は約束の地で「旅人や宿れる者」として住むために彼自

信以前の生活から別れました。

5.彼は永遠な命と世界の世継ぎの望みに刺激され、信仰の

人になりました。

私達も神を喜ばし、その約束の報償を得るためには彼の全段階をを経なければならないのです。

1.神の敵であるこの社会、政治、宗教の絆を切りなさい。

2.神の言葉を研究して理解するように努力しなさい。

3.何時も神の福音メッセ-ジを熱中に抱いていなさい。

4.バプテスマを受け、救いの道を歩いて行きなさい。

5.主イエス.キリストの再臨を待ち焦がれる間、この世から

分離を忠実に保ちなさい。 主はその人達にインモ-タリ

(immortality)とこの世界の世継ぎを与えるのです。

 

キリスト信者の生活にある恩典

キリストと共に歩く道には大きな恩典があります。 まず,神を意識するによって新しい人生の目的を持っているから現在の生活も満足します。 勿論、それには客観性がありますが、今日多くの人が何の目的もなく挫折した生活をしています。 しかし、アブラハムはその地で「他所の人、巡礼者」として住みました(ヘブル人書11:13)。 「他所の人」とは故郷、同僚らを離れた者であり、そして「巡礼者」とは彼が行くべき処を分かっている者であります。 彼の道は目的の地に向かい、その目的ははっきりしていました。 彼の旅の歩みは一歩一歩目的地に近くなっていました。

アブラハムの場合は、彼の前に置かれている目的は「その約束の望み」でした(使徒行伝26:6)。 彼は死者から復活して永遠にこの世界の世継ぎとなる期待の信心で生きました。

これがその使徒達の望みであったし、その基礎の上にキリスト教が建てられたと使徒パウロは次のように宣しています。

「私は、死人の復活の望みを抱いていることで、裁判を受けているのである」(使徒行伝23:6)

「今私は、神が私達の先祖に約束なさった希望を抱いているために、裁判を受けているのであります。 私達の十二の部族は、夜昼、熱心に神に仕えて、その約束を得ようと望んでいるのです。...神が死人を蘇らせると言うことが、あなたがたは、どうして信じられないことと思えるのでしょうか」(使徒行伝26:6-8)

「神は、各々に、その業に従って報いられる。 すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄と誉れと朽ちぬものとを求める人に、永遠の命が与えられる」(-マ書2:6-7)

聖書はこの望みによって信仰生活した人達に関して次のように話しています。

「彼らは皆、信仰を抱いて死んだ。 また約束のものは受けていなかったが、遥かにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした」(ヘブル人書11:13)

彼らはキリストの再臨と、死者からの復活を喜ばしく待ち焦がれながら生きました。 預言者ダニエルはこように宣言しています。

「また地の塵の中に眠っている者のうち、多くの者は目を覚ますでしょう。 そのうち永遠の生命に至る者もあり、また恥じと、限りなき恥辱を受ける者もあるでしょう」(ダニエル書12:2)

ダニエルは凡ての人が起き上がるのでなく、多くの人が起き上がると言っています。 神の目的を知り、それを信じた人達だけが裁きを受けるために復活するのです。 彼らが永遠な生命を得るとか或は第二の死を経験するでのです(ヨハネ啓示録20:14参考)。 パウロは「主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下って来られる。 その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初に蘇る」(テサロニケ前書4:16)と言っています。

その復活した栄えある人々の中にはアブラハムも居るでしょう。「私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう」と神は彼に約束したからです。 主イエスはそれがどんなに成就するかを説明しています。

「あなた方は、アブラハム、イサク、ヤコブや凡ての予言者達が、神の国に入っているのに、自分達は外に投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」(ルカ福音書13:28)

 

アブラハムの運命

その時、アブラハムはもう既にその地で「他所の者」とか「巡礼者」ではなく、主イエス.キリストと共に尊い者となって、その約束の地を受け継ぎ、この世界に樹立されたその王国で統治するでしょう。 「エホバは全地の王となられる」(ゼカリヤ書14:9)とその預言者は話しました。 だから、詩篇記者はその栄えある時を予期しながら、このように唄いました。

「主エホバはとこしえに王でいらせらせる。 諸々の国民は滅びて主の国から跡を断つでしょう。 主よ、あなたは柔和な者の願いを聞き、その心を強くし、耳を傾けて、孤児と、虐げられる者とのために、裁きを行われます。 地に属する人は再び人を脅かすことはないでしょう」(詩篇10:16-18)

このようにこの世界の広大な変化を預言しています。 キリストが王となって治めるその新政府は世界に公義を樹立し、人類に必要な物を皆供給し、また精神的要求も満足させるでしょう。

「地に属する者達」の圧政はもう遠く去りました。 その「地に属くする者達は」、彼らの悪性と暴力、彼らの無情により、彼ら自身の欲望だけを満たし、他の人に対しては何も考慮しないのです。

 

世界の世継ぎアブラハム

アブラハムとロトがさまようう間、彼らは当時知られていた世界をみな行きわたりました。 彼らはバビロニヤにあるカルデア.ウルを立ち、ハランに着き、そこからシリアとパレスチナを経てエジプト迄行き、更にカナアンに戻ってベテルとアイのあいだに住みながら神に仕えました(創世記11:31;13:1-2参考)。 即ち彼らは当時の世界を遍く旅しました(表紙の裏のペ-ジの地図を見なさい)。 そこで不幸にもアブラハムとロトの牧者間に争いが起こり遂に彼らはお互いに別れることになりました。 ロトは彼を魅惑する放蕩の都市ソドムとゴモラに向かっている水が豊かなヨルダンの平野を選びました。 ロトはアブラハムと別れてその「旅人の道」を離れ、世俗の享楽にふけているソドムの人に染まって彼らと一緒にこの世を楽しむようになりました。 彼は神のビジョンが覆われ、遂にソドムの享楽に溺れてしまいました。

しかしそれは虚像に過ぎないものでした。 結局彼の家族は皆その悪い環境に屈してしまい、彼自身だけようやく救いを得ることになりました。

それは今日もキリストの内にある生命の道を拒む多くの人が経験することです。 この邪悪な世には何も期待すべきことがありません。 ソドムの不道徳は今日も繰り返しています。 世界の政治はスローですが、容赦なく一歩一歩破滅と死の跡をこの地に残すべきハルマゲドンに向かって走っています。

人類は愚かであります。大部分の人が神のメッセージや彼の道を拒んでいます。 アブラハムの時も今日のようでした。

ロトがアブラハムを離れた後に、神はアブラハムにその約束と望みに対してもっと詳しく言い聞かせました。

「主エホバはアブラハムに言われた、目を上げてあなたのいる所から北、南、東、西を見渡しなさい。 すべてあなたが見渡す地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。...あなたは立って、その地を縦横に行き巡りなさい。 私はそれをあなたに与えます」(創世記13:1417)

この記述には時間、空間の領域を越えた「いわゆる霊魂が住む天の処」と言う考えは少しもありません。 アブラハムに約束した領域はこの地で、その期間は永遠であります。 更に聖書には「不滅の霊魂」と言う空論は全然見出せません。 その約束の内容はアブラハムがこの地を永遠に世継ぎするために不滅の命を持つ体に蘇るのであります。 唯その方法によってのみ彼が世界を永遠に世継ぎ出来るのです。

聖書全体がこの実体的約束に基いて書かれています。 旧約書とともにそれは新約書の基礎であって、使徒達の教えの基本でありました。 キリスト教の最初の殉教者ステパノはユダヤ人の議会で抗弁する時、その約束に基いて彼の望みをひれきしました。

「私達の父祖アブラハムが、ハランに住む前に、またメソポタミヤに居た時、栄光の神が彼に現れて仰せになった、あなたの土地と親族から離れて、あなたに指し示す地に行きなさい。 そこで、アブラハムはカルデア人の地を出て、ハランに住んだ。...そこでは、遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも、与えられなかった。 ただ、その地を所領として授けようとの約束を、彼と、そして彼にはまだ子がなかっつたのに、その子孫とに与えられたのである」(使徒行伝7:1-5)

そのステパノの陳述には、どうしてアブラハムがその地を継ぐかを話しています。 それは彼が死者から復活するによって出来るのであります。

ステパノが殺されてから数年の後、使徒パウロが裁判を受ける時、彼もユダヤ族の先祖達、アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた神の約束に基いて抗弁しました。 パウロは彼の告訴人達や裁判官の前に大胆に立ち、宣言しました。 「今私は、神が私達の先租に約束なさった望みを抱いているために、裁判を受けているのであります」。 そしてその約束に含まれている内容を強調しながら、「神が死人を蘇らせると言うことが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか」(使徒行伝26:68)と訴えました。

アブラハムがその約束したものを受け継ぐためには死者から復活して永遠な命を得なければなりません。 これが聖書に首尾一貫して述べている信者の望みであります。 預言者イザヤはこのように教えています。 「あなたに死者は生き、彼らの亡骸は起きる。 塵に伏す者よ、醒めて喜び唄え」(イザヤ書26:19)。 詩篇記者ダビテはこう祈っています。 「あなたは私を多くの重い悩みに会わされましたが、再び私を生かし、地の深い所から引き上げるでしょう。 あなたがたは私の誉れを増し、再び私を慰められるでしょう」(詩篇71:2021)。キリストは彼の教えに従って生きる人々に約束しました。 「あなたは幸いになるであろう。 正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」(ルカ福音書14:14)

 

真のキリスト教信者

アブラハムが世界の世継ぎとなるためには復活しなければなりません。 それが聖書の教えであります。 今日イスラエルの再生はその約束の成就に関する神の保証であります。 パウロはアブラハムがこの世界の世継ぎだと記しています。

「神はアブラハムやその子孫とに世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰の義に基づいてなされたのである」(-マ書4:13)

アブラハム自身だけがその世継ぎとなるのではないのです。 パウロは「アブラハムは信ずるすべての者の父」だと(-マ書4:11)記述し、「彼について記しているのは、アブラハムのためだけでなく、私達のためでもあって、私達の主イエスを死人の中から蘇らせたがたを信ずる私達にも」該当すると言っております(-マ書4:24)

「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。 もはや、ユダヤ人もギリシ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。 あなたがたは皆、キリスト.イエスにあって一つだからである。 若しキリストの者であるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束により相続人なのである」(ガラテヤ書3:26-29)

この声明は、若し神がアブラハムに与えたその約束の重大な意義を理解出来ない人は、例え彼がバプテスマを受け教会のメンバーとなっていでも、本当に「キリストの内に」ある者ではないとはっきり示しています。 それに反して、真のキリスト教信者は、アブラハムの如くこの世界の世継ぎとなるのだと言っています。

それはまたキリストの山上の垂訓の要点であります。 「宥和な人達は、幸いである。 彼は地を受け継ぐであろう」(マタイ福音書5:5)

このお言葉の素晴らしい内容を考えてみなさい。 それは神がこの世界とそこにある人類に関して一つの目的を持っていますから、現在の状態をこのまま黙認してしまはないことを意味します。 世界はもはや現在のような犯罪、暴力、戦争、不道徳の活舞台として放置されないでしょう。 キリストが治める時、世界にもたらす栄えある将来に関する素晴らしい多くの聖句を吟味してみなさい。 それはあなたを満足させるでしょう。

「天はエホバの天である。 しかし地は人の子らに与えられ

た」(詩篇115:16)

「正しい者はこの世で報われる」(箴言11:31)

「正しい者は地を継ぎ、とこしえにその内に住むことが出来

る」(詩篇37:9112229)

「彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。

その日ユダは教えを得、イスラエルは安らかにおる。 その

名は、主は我々の正義と称えられる」(エレミヤ書23:56)

「彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。 海沿いの

国々はその教えを待ち望む」(イザヤ書42:4)

「その時エルサレムはエホバのみ位と称えられ、万国の民は

ここに集まる。 すなわち主の名のもとにエルサレムに集ま

り、 かさねて、頑なに自分の悪い心に従うことはない」(

レミヤ書3:17)

「終わりの日に次のことが起こる。 エホバの家の山々は、も

ろもろの頭として堅く立ち、もろもろの峰よりも高く聳え、

すべての国はこれに流れてき、多くの民は来て言う、さあ、

我々はエホバの山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。 彼は

その道を我々に教えられる、我々はその道に歩もうと。 律

法はシオンから出、エホバの言葉はエルサレムから出るか

らである。 彼はもろもろの国の間に裁きを行い、多くの民

のために仲裁に立たれる。 こうして彼らはその剣を打ちか

えて、鋤とし、その槍を打ちかえて、鎌とし、国は国に向かっ

て、剣を上げず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」(イザ

ヤ書2:2-4)

上記の句節は皆この世がキリスト王国の活舞台であり、また信者達の永遠な住み処であることを強調しています。

その事実は今日人類に蔓延している多くの問題に実際的回答を与えるでしょう。 それで世界は当面している恐れの束縛と、政府間の諸問題から解放さるのであります。

今の社会は、引き続くインフレ-ション、富の腐食作用によって、若い人達が永い間まじめに働いてもささやかな住居さえ得ることが難しくなりましたが、信者達はこの福音によってアブラハムやキリストと共に世界を相続するのです。 「若しキリストの者であるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束に因る相続人なのである」(ガラテヤ書3:29)

私達はとても病んでいる社会に住んでいるのです。 神に感謝すべきことは、彼が完全にこの世を放棄していないことであります。神はアブラハムとその子孫に約束しなさったことを成就するために、イエス.キリストをこの世に送って彼の王国を建てるのであります。

「それらの王達の世に、天の神は一つに国を建てられる。 こ

れはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわ

たされず、却ってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼ

すでしょう。 そしてこの国は立って永遠に至るのです」(

ニエル書2:44)

「エホバの神は彼に父ダビテの王座をお与えになり、彼はと

こしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くで

しょう」(ルカ福音書1:32-33)

真の信者達は彼の来臨に際して、キリストと共同統治者になるのです。

「世が改まって、人の子がその栄光の坐につく時には、私に

従ってきたあなたがたもまた、十二の位に坐してイスラエ

ルの十二の部族を裁くであろう」(マタイ福音書19:28)

「勝利を得る者、私のわざを最後まで持ち続ける者には、諸国

民を支配する権威を授ける}(ヨハネ啓示録2:26)

「あなたはあなたの血に因って、神のために、あらゆる部族、

国語、民族、国民の中から私達を贖い、私達の神のために、私

達を王、祭祀となさいました。 私達は地上を支配するに至

るでしょう」(ヨハネ啓示録5:9-10)

 

将来の世界

アブラハムと彼の子孫はこの世界の世継ぎと約束されたのだけではなく、また誉れと栄光が永遠に続くのが約束されたのです。彼らは世界に建てられる世界的王国の貴族となってキリストとともに統治するのであります。 聖書全体を貫いて表わした人間に対する神の啓示は人間政府の廃墟の上に彼の国を建てて統治することです。 キリストの王国は神が治める国であって、キリストが王となり、贖いを受けた彼の兄弟達が一緒に治めるのです。「若し私達が、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。 若し耐忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう」(テモテ后書2:12)、 これは使徒のあかしの主旨でありました。 その言葉は復活して不滅の体を得た主イエスの追従者達は、「キリストと共に千年の間、支配する」(ヨハネ啓示録20:6)ことを要約したのです。 預言者ダニエルは宣しました。

「国の主権と全天下の国々の権威とは、いと高き者の聖徒た

る民に与えられる。 彼らの国は永遠の国であって、諸国の

者は皆彼らに仕え、かつ従う」(ダニエル書7:27)

他の預言者達もそれと同じくの声明しました。

「彼は世に義は栄え、平和は月のなくなるまで豊かであるよ

うに。 彼は海から海まで治め、川から地のはてまで治める

ように。 ...彼の名はとこしえに続き、その名声は日のあら

ん限り、絶えることのないように。 人々は彼によって祝福

を得、もろもの国民は彼をさわいなるものと称えるように」

(詩篇72:7817)

「地が芽をいだし、園がまいたものを生やすように、主なるエ

ホバの神は義と誉れとを、もろもろの国の前に、生やされ

る」(イザヤ書61:11)

「あなたに仕えない国と民とは滅び、その国々は全く荒れす

たれる」(イザヤ書60:12)

キリストの統治は人間の生活を全く改めるでしょう。 人々はお互いに親睦と好意の生活を学ぶによって、「いと高き所では、神に栄光があるように、地の上では、み心に適う人々に平和があるように」と言った預言が成就するでしょう。 産業的国際間の対立は一つの完全な政府のもとで絶えるでしょう。 国々は一人の帝王のもとに協力して、今日巨大な費用によって人々から繁栄を搾取している軍備支出の必要がなくなるでしょう。 また人々は一つの宗教に結合して同じく神を礼拝するでしょう。 絶対に確実、賢明なキリストの政府は世界の貧困と難問の重荷をおろしてやるでしょう。 それは「海が水で覆われているように、地はエホバの栄光の知識で満たされるからであります」(ハバクク書2:14)

なおまた、その将来に対する栄えある期待はどても遠い未来のことでありません。 現在の聖書預言の成就、特別にイスラエル国家の蘇生と中東地域に起こる事件はキリストの来臨が近づいたことを立証しています。 これは何も疑う余地がありません。その決論に至る確かな証拠を把握するようにお願いします。

 

ベテルであるか、或は破滅であるか

神の道を歩むには一つの挑戦であります。 アブラハムの時もそうでした。 アブラハムとロトの道が別れるように導いた彼らの牧者達の争いはとても意義がある場所で起こりました。 それはベテルとアイの間でした(創世記13:2-3参考)。 ベテルは「神の家」と言う意味ですが、アイは「破滅する」との意味であります。 ベテルは高地に位置していまして、そこに至るには決意と努力が必要でした。しかしアイはより低く傾斜した処で、そこは比較的に行きやすい所でした。そこで安楽と富裕を与えるように見える現世的ソドムに魅惑される瞬間、ロトは水が豊かな平原を選びました。 そして彼はアブラハムの処ベテルを離れて下向きの所である破滅のアイに行きました。

それは人間の運命に関する一つの表象であります。 神の啓示の書、バイブルに従って導かされる人は皆アブラハムでなければロトとなるのであります。 今日の世は私達を惑わせる魅力があります。それは富裕、安楽、繁栄の機会を与えるように思われます。 しかしそれは唯人に挫折をもたれせ、そして結局死に導きます。 この世には多くの約束がありますが、ただ墓と言う少しの領地しか与えません(詩篇49:14-20;-マ書6:23)

他方では「神の家」ベテルが人々に訴えています。 それもやはりこの世に約束しますが、それは犠牲と奉仕に基づいてしているのです。 それは人々が彼ら自身今日の哲学や誤った推論から別れ、彼ら自身を指定された方法に従って神に捧げることを要求しています。神の福音を理解し、イエス.キリストとのみ名によってバプテスマを受けることであります。 この世界を与えるとの約束は聖書の預言の成就によって保証されています。 アブラハムになされたのと同じい訴えと招きが今も耳のある人凡てに響いています。 その招きを受け入れて主イエスの下に来て下さい。

読者よ、その招きを受け入れて主.イエスの下に来て下さい。

エホバの神はあなたにこんなに懇切に仰せになっています。

「だから、彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言

われる。 そして、汚れたものに触れてはならない。 触れな

ければ、私はあなたがたを受け入れよう。 そして私は、あな

たがたの父々となり、あなたがたは、私の息子、娘となるで

あろう。 全能の主が、こう言われる」(コリント后書6:17-

18)

このように準備した方にその約束の通りにインモータリテとこの世界を与えるのであります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界の世継ぎと

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すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたと

あなたの子孫に与えますー 創世記13:15

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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イエスは言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。 わたしを信ずる者は、たとい死んでも生きる。また生きていて、わたしを信ずる者は、いつまでも死なない」。

(ヨハネ福音書11:2526)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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