真の宗教

A Common-sense view of Religion
H.P.Mansfield

 

宗教に関する一般概念

現代はいろいろな宗教が発生して、宗教のパノラマを開いた社会になりました。文化が発展している社会、あるいは未開の奥地の村、世界のどこでも人間は自分自身や家族または部族、国家の安寧を祈り、あるいは出世を望み、事業の繁盛を願って仏様とか神様、また地神に仕え、礼拝し祈っているのを見ることが出来ます。特に今は人間が生来もっている弱さのために何時も力強い対象に頼るその弱点、宗教心を利用して作られたいろいろな宗教が年々新しく発生しています。すなわち宗教と言うその美名の下に大王国を図って勢力を拡張し、その教主の王国を築いているのを見ることが出来ます。そのような邪教らは勢力拡張のために如何なる手段もかまわずに使用するから社会は人倫道徳が崩れ世の乱れが極に達している状態になりました。

宗教とは絶対そういうものではなく、この宇宙や人間は誰が創造し、何のために創造されたか?それらを司る絶対者、つまり神様は存在するのか、また真理はなんであり、どこにあるのか、人間はどこから来てなんのために生き、なぜ死んでしまうのかを研究し悟ることであります。

ゆえに宗教は人間が行くべき最も尊い道、または最も尊い教えであって、人間をその創造者、全能の神と繋がせる唯一の教えであります。その教えは人間が考えて作った哲学、または感情から感じた迷信的対象を信ずるものではないのです。その真の教えはこの宇宙を創造し、それらを司る全能の神「ヤウエ」が人間に啓示してくださった聖書、バイブルから見い出されるのであります。

しかしバイブルを基本とし発生した多くの宗教、カトリック教やまたそれから分派して作られたいろいろなプロテスタント教も皆バイブルの教えから離脱して邪宗になってしまいました。だから真の宗教であるキリスト教を見い出し信じたいと思う人は先ずバイブルを学ばなければなりません。

 

神は存在するのか?

この質問は人間が深く考えてみなければならない最も重大なことであります。それは一見重要な問題でないように思われますが、しかし注意深く考えてみたらその答えはその人の運命を定めるようになるでしょう。要するに、その考えの結論は実際私達の一生の問題にインパクトすると共に、人生の将来に対する望み、欲望と計画を確実にするのであります。それを考え続けて行くと一生があまりにも短いのに気付きほかの考慮はみなその重要さを失ってしまうでしょう。私達の一生は70年、或いは80年でありますが、あるときは短く、あるときは永くと思いますが、まもなくそのリミットに到達するのです。事実、人生は弱い幼年時代、それから青年に発育してしばらくの間人間の全盛期である中年期を経て、まもなく気力が衰え小さいことにも疲れを感じ病気を起し、そして究極は必然的に冷たい死を迎えて墓に入り、遂には永遠に忘却の深淵に落ちてしまうのであります。

では、人生の目的は何でしょうか?何のために私達は生きるのでしょうか?この質問に答えるには私達の考えを越えた事を考えてみなければなりません。この宇宙の雄大な計画にある論理的証拠と事実をはっきり見分けまた私達自身に対する生命の秘訣を解明しなければなりません。

これは直接にこの小論の始めにある難問で困らせたその質問を案内します。

 

神は存在する

神は存在しないと言う人、或いは存在すると神を認めている人さえも彼の啓示を気にかけないし、自ら永遠な者に対する崇敬の念から来る非常に貴重な経験、また将来のより良い望みのひなたから切り離しているのであります。それらは現在の絶望的人間の命の暗やみを照らしています。創造者を拒む人は彼の否定から生じる愚かさに気付かず、或はそうする事によって彼が命を失うのを悟らないのです。彼は理解できなかも知れませんが、人間存在の実在はそれ自体が創造者が必ず存在しているのを意味しています。それ故に誰も人生の価値を考えるように要求しているのです。神に関する知識のない者の一生は価値がなく、また欲求不満のみじめな一生であります。

人間は皆遅かれ早かれ誰も幾度か危機に見舞われるて、災難、病気、孤独、弱さを経験する時があるのです。そのとき不信仰者の絶望は身の奥までしみる南極の永遠な霜の冷たさのような孤独を感じるでしょう。ここでそのような人が神がその状況に与えている慰めやいちるの望みに向くことが出来るでしょうか?

フランス革命の先導者達が彼らの失敗を見い出したように、またそれ以来無神論者の社会主義の影響の下にあるこの世のように、社会が混乱にした時は神に関する無知が社会の安定さえ脅すようになります。それで人々は彼らが発明した一つの神である不信仰の暴行や惨めさによって砕ける時、大衆を道徳的束縛と規律の影響の下に戻すために、この脅威は歴史がその例証を書き留めるほどに激しくなりました。

 

神とは何を意味するのでしょうか?

神と言う言葉が意味するのをただ一つの文章で表わすのは不可能ですけれども、それに関してしいて話せば、私達が見ているこの地球や宇宙の全自然界を生産し維持する充分なエネルギーを持っている、また私達自身の微小な部分までもつくっている一人の知能の高い存在を“神”であると言うことが出来ます。

確かにそのような存在があるのでしょうか? または宇宙は現在何の目的も無く、或は将来人類に利益を与える計画を形成する知能力を欠しているただ発酵要素らの偶然な進化の結果であるのでしょうか?

常識的答弁

常識とは普通一般の人が共通的に持っている知識、道徳、意見、または理解力や判断力を言いますが、それは自然的環境を、実際それらの原因を認識することなしに、それらの発展と効果を受け入れ期待しているところに成り立っています。

引力作用の法則に関して説明してみましょう。普通の人は引力法則に関する科学的知識や原理を知らないかもしれませんが、その引力法則の行動の正確な感覚を持っているのです。彼は空間にある多くの物体が相互引力で引き付けようとしている宇宙の法則によって起ることは気付かないかもしれませんが、一つの石を丘の上に向けて投げれば、それはその向こうの谷間でがちゃんと砕けるのを知っています。

創造者に関する問題もそうであります。私達が理論的に彼を意識していないけれども、人間は生まれながら本能により強いお方を意識し、彼を敬おうとするのです。

私達がなぜ人間の知能が論理的宇宙を推論するかを考えてみる時宇宙の創造者があるのを知り、神様が存在するのを私達に説きその原則を発見するでしょう。ただ彼の言葉である聖書だけが私達が神から離れた理由の罪を説明してくれますが、なぜなら人間にある神の潜在意識が彼の存在を立証するからであります。

一人の絶対者がいなければならないから神は存在しなければならないのです。

 

その証拠がある空と周囲を見なさい

まず地球、太陽、星らを考えて見なさい。もしもそれらがかねてから存在したのでなかったとすれば、それらは必ず存在し始めた時がなくてはなりません。私達がそれを考える時、一つの疑問が起ります。“以前は存在しなかったそれらがなにゆえにその瞬間に存在し始めたのか?” もしその時以前空間に知能のある勢力者がいなかったらそれらが百万年も前から存在し始めることが出来なかったでしょう。

もしそれらがその時活動し始めたら、それらを活動始めさせた者が居らなければなりません。その者は何でしょうか。その者はその動きの無い物質に力を与えた者です。それらを動かし始めた者は知能と力があります。なぜならその運転は賢明でありまた巨大であるからであります。それらの創造の時その勢力者自身がそれらが存在するように力を与えたと言う結論になります。何でも作用するように原因を与えなければ結果が起らないのが科学的事実であります。その知能的力を持っている方が神様であります。その神が本来無秩序的宇宙から秩序的になるようにしました。

 

もっと多い証拠がある地球を考えてみなさい

この問題をより詳しく考えて見たら、素晴らしい答えがあります。神の知能や目的が自然の各分野で見られます。その知能を認めるとすぐに神の存在を認めるようになります。

私達の手、足、或は身体のいろいろな部分の構造はそれら特別な目的のために設計されて、知能的に作用するのを立証しています。すべての植物や動物はそれら自体の力を考えてみると何よりも先ずこのデザイン、意図、目的の証拠が自然の構成によく表れています。

ここにはいろいろ生命の種類が永続出来るようにその目的の反映があります。他のすべての力と機能はその創造物それ自体の使用と必要のためでありますが、しかし再生産力は未来の状態をさし示しています。植物、あるいは動物はそれ個体の生命は重要でなく、その種類が継続するように続いて起るのが必要であります。種類の永続の保障には一つの計画的準備があるのであります。

これは無知な、あるいは盲目的な取り合わせでしょうか? それは意志あるいは目的がある取り合わせであります。もし盲目的力が意志を執行出来るなら、それはもう盲目的力ではなく、何かそれに提供している者があると思わなければなりません。もしそうであれば、それは、神を信ずる者たちの信仰よりも神を拒否する者たちが信じやすくなるという賢明的永遠な創造者の手から来る驚くべき宇宙の偉大なる奇蹟であるでしょう。

それで常識はバイブルが言っている言葉と一致します。“愚かな者は心の内に、神は無いと言う”(詩篇14:1)。

 

にわとりと卵はどれが先であるか?

私たちが話しているのは生ける永遠な神が存在すると言うただ常識の判断が支持している彼の意志とか目的の証拠の端緒だけであります。

自然界には神の知恵と力の作用を離れては説明出来ない細かい点があります。

普通のにわとりの卵について考えてみましょう。総ての卵はにわとりから出てきて、またすべてのにわとりは卵から出てきます。誰もにわとりが生んでいない卵を食べることは出来ないように、また誰も卵から孵なかったにわとりを見ることが出来ないでしょう。さて、ここに興味深い問いは、にわとりと卵のどれが先であるか?”と言うものです。しかしそれが問題でなく、とても難しい事ですが、最初のにわとりあるいは最初の卵は如何に造られたかと言う事です。あなたはそれに対して、“その最初のにわとりや最初の卵はそれ自体自然存在していたのではないか?”と非科学的あるいは非現実的に答えるでしょう。それはあなたが私達に今まで一度も起ったことがないことが起ること、または逆に今皆が経験し真理と分かっていることを信ずるかと問うのです。すなわち充分な理由がない限り自然の法則を離れて何にも起ることがなくまた何にも生じないのです。

その最初のにわとりあるいは最初の卵の存在にはそれ相当の理由がなければなりません。知能あるものを生産するには知能が必要です。にわとりを生産する卵を造り、あるいは卵を生産するにわとりを生産するにはそれらよりももっと知能がある者でなければなりません。だから、その最初の卵とか最初のにわとりはある知能者によって存在するということになります。その方が神様であります。

このような論議はほかのいく数千の問題に適用することが出来ます。本能について考えて見ましょう。あらゆる種の生物は本能により成り立ち、その行動は驚くべき肉体、心理的法則により統制されています。ある盲目的力がこの本能機能を動物に与えることが出来るでしょうか? 私たちはいかにこれを説明出来るでしょうか? その本能は経験によって説明出来ないのです。なぜならば、それはすべての経験から独立しているものであるからです。水を見たことのない幼い子がもが池に行って完全に飛び込み泳いたりするのです。また空に現れる鷹や、恐ろしいものを一度も見たことのない幼いひよこが本能でそれらの恐ろしさを感じるのです。新しくかえたひよこが穀物をつつきます。働き蜂が巣からカエルやいなや完全な建築術で働きはじめます。これらばかりでなく、他の数千の実例がみな異口同音に私たちが住んでいる自然界の組織の構造に表れるこの宇宙には驚嘆すべき知恵と力を持っている方が存在し、存在するに違いないと言う常識の判断に賛成しています。

 

神自身が人類に彼を知らせている

私たちの常識のように神の存在を要するならば、また私たちは神が彼の目的を人間に啓示することを要しなければなりません。自然界の創造物がその知能者の能力の事実を表示している間、それは彼の目的あるいは性格を表わしてはいません。なぜなら私たちはその啓示を要求しているからです。それがなくては私たちが彼が万物の創造者である事実以外のことについて何も分かることが出来ません。それがなくては私たちは、愛の神、憎悪の神、光の神、闇の神、平和の神、戦争の神等、色々な神を拝むギリシャ、ローマ、日本のように多神論者になるのであります。

しかし唯一の神は彼の存在と彼の目的の証拠を人に分かるようにしました。バイブルは人に示した神の啓示です。それは神を最も面白く出来る限り有効適切に啓示しています。それは実際の取り扱いに関連して彼が先導的になって彼が成したことと彼が話したことを書き留めています。事実、バイブルは主に神の行動や声明を書き留める事によって彼の人格を現わしたもものであります。この驚くべき書物の各ページには、私たちが彼を敬わなければならないように彼の人格を示しています。彼は慈愛深い天の父として現れ、彼の慈悲と愛の程度が彼が地球のために定めた運命と、彼に仕える者たちに置かれた補酬によく現れています。

大抵人々はバイブルが宗教の陳腐な言葉を溜めている書物またはいわゆる“信仰に関する礼拝書”に過ぎないと考えています。これはとても大きな間違いです。バイブルにある人物中、彼の天の父の言葉を表わすに最も優れた人であるキリストさえ、人を勧告するよりもっと神を現わそうとしました。彼の奉仕は人々を父に引きよせるように、彼らに父のお名前を“現わし”、“宣言する”ように意図されていました(ヨハネ福音書17:6、26)。これは人間の事柄に神が啓示する率直なな教えによって、また訓戒と模範を通じて成し遂げました。

世間にはバイブルについて神話、伝説、伝統とする傾向が増加しています。こんなに提案する人たちは異なった階級の人たちです。

また浅薄、野卑、図太く不敬なことを言う者たちがいます。彼らは自分自身も分からないよこしまな事を話しているのです。

不可知論者たちもいます。彼らはバイブルを信ずるのが迷信的宗教と分類し、そして人間を導くに何の価値もない哲学によってぼやかされた知的文化の卓越点を主張しながらバイブルを軽蔑しています。

またバイブルにある神を認めている聖職者たちさえバイブルを批評する高等批評家たちもいます。彼らはバイブルに多くの人間的間違いが含まれていると言い張る事によってその価値を破壊しています。それは彼らがバイブルに接吻しながら同時にナイフでそれを突き刺しているのです。

バイブルそれ自体を規則的にそして熱心に読むことがそのあるがままの特性を判断出来る唯一の方法であります。しかし不敬に話している部類の人たちは誰もそのようにバイブルを読む者がいません。彼らはバイブルについて人たちが何と言っているかを読んでいます。それは別の問題であります。

バイブルは神から起原し、神がその著者であることが私たちが照会したすべてのテストによって証明されます。神の方法が人間の方法と違うのと同じく、神の書物であるから人間が書いた書物とは全然違います。本当にそうです。バイブルは書き取りのスタイル、その感想の本質、その説明の本質が人間の文学と違います。それは人間の書物がしたことがないように、神を高め、人間を軽蔑しています。その物語りの大まかな率直さ、その目覚ましい預言等を読んでみなさい。

この事実を考えてみなさい。バイブルは世界全体が迷信的慣習と自然法則や科学概念の無知に落ちぶれ、残酷、偶像崇拝の信仰やその実践に入っていた時代に書かれていますが、バイブルは考えや行動に対して高尚であり純粋な本質を表わしています。

バイブルはこの世のどの書物よりも多く反対と迫害を受けましたが、なおそれらに打ち勝ち、数えることが出来ないほど多く作られました。数世紀間続いて人々はそれを焼脚し破壊しました。バイブルを消滅しようとする撲滅運動が次々に起りました。帝王たちと教会の統治者たちが地上からそれを撲滅しようと協議しました。AD303年、ローマ帝国の帝王であったデオクレテンは世界中もっとも恐ろしくバイブルを攻撃した者でした。彼はバイブルと知られている書物は皆焼き捨て、数千のクリスチンを殺し、“クリスチンの名は絶滅した”と刻印したバイブル根絶を記念する勝利の柱を建てたほどバイブルを根絶しようとしました。しかしデオクレテンはすでに死んでいますが、バイブルは今も継続しています。痛ましくも彼の抑制はそれ以前のどのものよりも大きいものでした。その驚くべき事実は、殆ど多くのクリスチンが迫害され殉教した偉大なる時期に、その激しい反対は直接にその教理や信仰箇条でなく、バイブルそれ自体に対するのでありました。過去の多くの時代、バイブルを読んだ人たちは激しい頑固な反対者たちとしてローマ.カトリック教の宗教裁判にかけられて酷い拷問を受けました。

バイブルの破壊は継続された

近世になっては、あの冷淡な致命的哲学の理性論者たちがバイブルの影響を破壊しようとしました。しかし彼らは成功することが出来ませんでした。屠殺者デオクレテンとか、ローマ.カトリック教の異端者審問などそれ以上の事は出来なかったのです。ボルテール、ペイン、ボルリンブロク、その他の人たちの著作物がバイブルに対し一様になり、その人たちの声はバイブルの内容とをあざけりました。しかしバイブルは今日も聞こえていますが、彼らの声は沈黙しています。今彼らの書き物は何の影響も与えませんでしたが、バイブルのメッセージはいまも力強いものです。

ある作家はこの現実うまく表現しています。“力強い帝王や王、祭司たちはそれを根絶するために苦労せず、また罪の意識なく避けて来ました。賢者や学者たちはそれを拒絶しようとしました。いまは高等な批評家たちがそれに対して支配しています。また科学がそれを片付けています。しかしそれは今日驚くべき速さで数百国語で数百万部が全地上に普及され、南極から北極の人たちに読み伝えられています”。

モーセの挑戦がよく当てはまります。“試みにあなたの前に過ぎ去った日について問え。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの端から,かの端までに、かってこのように大なる事があったであろうか。このようなことを聞いたことがあったであろうか”(申命記4:32)。

 

バイブルに対する概観

バイブルは大部が予言の本であります。特に旧約聖書がそうです。それは全部合わせて39巻でありますが、一つの本に含まれていて、人間の憶測をはるかに越えた予言を含んでいます。バイブルが予言しているように古代に強大な国家が起り去って行きました。例えば、ニネヴェ、バビロン、ツロ、エドム、アムモン、そしてフィリステンの帝国ら、彼らの勢力が最高に達している時バイブルは彼らが完全に滅亡することを予言していますが、その通りに今その国家はなくなっています。バイブルの予言の通り彼らはもう存在しません。

ニネヴェ:アッシリアの首都ニネヴェは完全に滅亡し荒廃してしまい(ナホム書1:8;ゼパニヤ書2:13ー15)、そしてバビロンは荒れ塚となりました(エレミヤ書25:12)。バイブルが予言したように完全に成就され、一世紀前そこを発掘するまではそこがかって強大な都市があった所とは全然分からないようになっていました。それ以来、考古学者たちが彼らの廃墟を発掘するによって、バイブルが確かに予言していた事と一致する状態を発見するようになりました。

ツロ:今は地中海に沈んでいますが、かつて繁栄していた強大な海運国でした。その遺跡は今“漁師たちが網を張る場所になってしまいました”(エゼキエル書26:4、12、13、15、21)。現在も晴れた日には地中海の底のあちこちに沈んでいるその遺跡をみることが出来るのです。

これに反して、ユダヤ人、アラビヤ人、ペルシャ人、エチオピア人、エジプト人たちはこの地に神の国が樹立するまで存続するとバイブルは予言しています。

この予言は成就しました。その国々は今も残って、バイブルの予言に描写された通りの状態であります。

事実に、バイブルの予言はそれをあざける者たちの口を黙らせるほどその真実性を立証し、不信者たちの心を改めるようにしています。例えば、予言者イザヤは宣言しました:“国々の誉れであり、カルデヤ人の誇りである麗しいバビロンは、神に滅ばされたソドム、ゴモラのようになる。ここには長く住む者が絶え、世々にいたるまで住みつく者がなく、アラビヤ人もそこに天幕を張らず、羊飼もそこに群れを伏せることがない”(イザヤ書13:19ー22)。この宣言のようにバビロンは完全に滅亡しています。その上に、アラビヤ人がそこに天幕を張ることが出来ないと精密に話され、それが正確に成就しているのです。考古学者レイヤード氏が古代バビロンの遺跡を発掘する時、アラビヤ人作業者たちがそこに夜通し泊まることができないことを知るようになりました。あるトルコの陸軍将校は、彼がかってバビロン近くで狩りをしていた時、アラビヤ人たちはそこに鬼神と悪霊があると信じ、彼の天幕を急に襲っうたと報告しています。

バビロンに関するその予言はバビロン帝国が彼の誉れの最高に達し、その偉大なる首都は古代世界のすべての国から来る多くの訪問者たちを迎えていた時、宣言されました。

バイブル不信者である学者ボレイ氏はエドムとエドメ人たちに対する予言の真実性(エレミヤ書49:16;エゼキエル書35:3ー15;オバデヤ書18)を確認しようとして、彼がそこに八日間旅出た時、極度に放棄された都市30箇所の廃墟を発見することが出来ました。

旧約聖書にはキリストの初臨と再臨に関する予言が多く記載されています。旧約聖書には、彼が生まれる数世紀前に、彼の来臨と使命に関することが詳らかに描写されています。彼の家系、生まれる時、生まれる所、生まれる方法、彼の幼い時、成人の時、彼の教え、彼の性格、生涯、伝道、人たちの受け入れ、人たちの拒絶、彼の死、埋葬、復活、昇天、そしてかれの再臨と統治ら、旧約聖書のすべての予言の主題が書かれています。

これは全部偽造であり、またはその予言は皆新約聖書の教えと同時に起ったように後書き加えたのであると懐疑論者たちは答えます。しかしそんな答えは常識的に誤った考えであることを示しています。ユダヤ人たちが主イエス.キリストの身分を拒否するけれども、旧約聖書はユダヤ人たちの書物であることをすばらしく示しています。この事実が唯一旧約聖書がイエス誕生以前に存在していた事を示しています。そしてキリストがこの世に現れた時、彼はユダヤ人たちに拒否され、また彼らによって十字架につけられるであろうと言った正確な予言は確実にそれが驚異的書物であるのを立証しています。ユダヤ人たちがキリストを拒否していたのに、彼らが彼らの聖書にこんな偽り事を書いたでしょうか?そんなことはありえないのです。神が存在すると言う常識はしいて、バイブルがその神の言葉であることを認めさすことになります。

言い換えれば、私たちが神を信じ、さらに信じなければならないことが常識になっています。

 

歴史に現れた神の手

プロシャ帝国の大王フレドリクはバイブルが誤りのない神の霊感による書物であることを一言葉で立証するなら、それは“ユダヤ人たちである”と答えました。

その答えは事実が調査された時、人を動かさずにはいられないでしょう。バイブルはユダヤ民族の運命を間違いなく正確に予言し、歴史はその予言の事実を十分に証明しています。ユダヤ人たちが彼ら自身国々に散らされていた事も、その予言に描写されている通りでありました。A..1948年にイスラエルの国が再建される数世紀も前に人たちはこのような話しを聞きました:“あなたは主があなたを追いやられるもろもろの民のなかで驚きとなり、ことわざとなり、笑い草となるであろう”(申命記28:37)。

これらの言葉は何と真実味のある言葉でしょう! 友人に、“オーストラリア人のよう”と言うと気分欲感じ、“ユダヤ人のよう”と言うと侮辱的に感じます。何故でしょうか?

ユダヤ人たちは世界中どこでも軽蔑されています。彼らはバイブルの予言の言葉通り、“もろもろの国々で、驚きとことわざ、笑い草となっています”。

多くの時代を通じて継続的に彼らはすべての人から辛い反対と迫害を受けいるにも拘わらず、ユダヤ人たちはバイブルの予言の宣言通りに世に残存しています。歴史上、その国よりもっと強く偉大な国々が皆彼らの征服者によって併呑され、あるいは時の経過によってこの地から消え去りましたが、ユダヤ人たちは重ねる従属と迫害にも拘わらず残っています。このように歴史はユダヤ人に関して話しているエレミヤ書30:11のような句節の真実を証明しています:“主は言われる。わたしはあなたと共にいて、あなたを救う。わたしはあなたを散らした国々をことごこく滅ぼし尽くす。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはしない。わたしは正しい道に従ってあなたを懲らしめる。決して罰しないではおかない”。

この声明一つきりで疑いの心を満足させるでしょう。その他になにがイスラエルの継続的生存を説明出来るでしょうか? ユダヤ人たちに反対する勢力のある国々が次々とが起り彼らの存在を消滅しようとしましたが、彼らは皆不可避的に迫害者となるだけで、ユダヤ人を消滅することは出来なかったのです。

それはなぜでしょうかと人々は質問するでしょう。

バイブルは人間の歴史に神の手が働いたと答えています。エレミヤ33:20ー26には、神が人間に挑戦しているのが書かれています。もし人間がその定まっている昼や夜を替えすことが出来れば、イスラエルを完全に滅亡させる望みを持つであろうと、神は宣言しました。

しかしまた“神はなぜユダヤの国を維持しなければならなかったでしょうか? 不従順の記録が彼らの歴史ではないですか? 彼らは神の子である彼らのメシヤを十字架に張りつけているのでないですか?”と問うでしょう。

これらは皆真実です。それでは、なぜ彼らを維持しているのでしょうか? その答えはエゼキエル36:22に与えています。神は宣言しました、“それゆえ、あなたはイスラエルの家に言え。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしがすることはあなたがたのためではない。それはあなたがたが行った諸国民の中で汚したわが聖なる名のためである”。

神は誠実なアブラハムに彼の子孫を“大なる国民とする”と約束しました(創世記12:1ー3)。アブラハムの子孫たちがユダヤ人たちであり、彼らの不従順の記録は神がその反逆的国を滅亡させたほどに、神はすべての人に彼の正当性を証明しています。しかし神は彼の本質的忠実性のためにそれをすることは出来ません。彼はその国に対して一つの目的を完成することを約束しながら、“彼の名前の故に”それを必ず成し遂げると宣言しました。そのために、ユダヤ人たちば維持され、彼らの故土に帰り、彼らの国を再建することが出来るのです。常識的にそれらすべてに神の手が現れているのを見て、それを彼の忠実性のしるしと認識出来るでしょう。神がこのように不忠実なユダヤ人たちと結んだ彼の約束を果たしながら、彼はまた順従し仕えようと求める者たちを救うと言った約束を果たすのはあたりまえです。このようにバイブルの記録と約束を絶対的に信頼出来ることは常識です。

 

終わりの時の現象

今日、しかしながら私たちは諸々の国中でもユダヤ人たちが彼ら独特性を維持しながら維持されているのを見ることが出来ます。また彼らが彼らの故土に帰りユダヤの国を再建しているのを見ることが出来ます。世界で起ったこれらの事は一つの奇蹟を目撃しているのです。バイブルはこれに対して宣言しています:“万国の民よ、あなたがたは主の言葉を聞き、これを遠い、海沿いの地に示して言いなさい。「イスラエル」を散らした者がこれを集める。牧者がその群れを守るようにこれを守られると”(エレミヤ書31:10)。この言葉が話されてから2,000年も以上すぎ去りましたが、今日それらが成就されています。数百のそれと同じい予言を引用することが出来ます(エレミヤ書3:14ー17;30:17ー18;32:37;ホセア書2:23;イザヤ書37:31;ミカ書4:6ー8)。

懐疑論者はこの現実を絶対説明することが出来ません。常識的にバイブルは真実であり、そして神の手が人間の歴史に働いているということです。

そのユダヤ人に対する神の窮極的目的は何でしょうか? 更にバイブルは我々に疑いを残してはいません。“見よ、わたしはイスラエルの人々を、その行った国々から取り出し、四方から彼らを集めて、その地にみちびき、その地で彼らを一つの民となしてイスラエルの山々におらせ、ひとりの王が彼ら全体の王となり、彼らは重ねて二つの国民とならず、再び二つの国に分かれない”(エゼキエル書37:21ー22)。この句節は、(1)イスラエルが彼らの故土に再集すること;(2)彼らの国が再建すること;(3)彼らに一人の王が定まることを教えています。その王はユダヤ人たちの王であると主張したために十字架に張り付けられたその人、ローマの総督ピラトが彼の十字架に“ユダヤ人の王、ナザレのイエス”と罪状書をかいて、かけさせたイエス.キリストです。

 

真の宗教

私たちは宗教に関して常識的に追求した結果真の宗教を発見するようになりました。そしてその宗教を信じて救いを得るのでなければなりません。人間の救いは各個人の問題であり、その個人の自発的行動によるのです。これが宇宙の法則であるのは常識的判断であります。その救いを得るには自発的に行動する人だけが成し遂げ成功するのです。心や体が怠惰な者は何も達成することが出来ません。また最も手に入れようとする者に獲得されるのが生活の法則です。私たちは成功を得ようと犠牲を覚悟し、それを取ろうと手を伸ばさない限り、人生の戦いで勝利することが出来ないでしょう。救いはこれと別のことではありません。私たちは救いを他の者に任せてはいけません。“まことに人はだれも自分をあがなうことは出来ない。その命の値を神に払うことは出来ない。とこしえに生き永らえて、墓を見ないためにその命をあがなうには、あまりに値高くて、それを満足に払うことができないからである”(詩篇49:7ー9)。

私たちが言っているその“救い”は死から救われるのであります。バイブルはその救いの補償は指定された時が来て(コリント前書15:23;ヨハネ啓示録22:12)、この地にキリストが再び現れて王となり(ヘブル人書9:28;テモテ後書4:8)、過去の多くの人が生きている信者たちと共に裁判者である主の前に現れるために墓から復活するであろうと宣言しています。その永遠の生命をうけるに値する者たちは不死の身と、また誉れの地位を与えられるのであります。

この計画の広大さと見事さ、それは全く神のみ業であることが刻印されています。人間は決してこのような計画を発明することが出来ないのです。いわゆる聖職者たちが現在この地の上で祝福を約束し、あるいは死が天国に入りる出口であると空論を説明しています。バイブルにそんのような話は全くなく、永遠な生命を持ってこの地で享楽することを述べています。

しかしこのような正しい常識の判断があるだけで、その救いを得ようと何の準備もしない者にそれを与えるのではありません。では救われるには何をすべきでしょうか? キリストは答えています。“福音を信じなさい。信じてバブテスマを受け、肉の欲を克服し神の意志に従う者は救われます”(マルコ福音書16:16;ローマ書1:16;コリント前書15:1ー3;マタイ福音書7:21ー29)。私たちは先ずバイブルが説明している基本真理を学習するにより心を訓練し、それからイエス.キリストの再臨にて不死の体を受けるに値する道徳的生活を築かなければなりません(コリント前書15;53ー54)。

私たちはあなたがこの小論を読んで、あなたの恩恵と永遠の救いのためにこの教えを基本として行動するようにお願いしています。バイブルに対する御意見.御質問があればいつでもお問い下さいませ。